真っ白なカーテン


 真っ白なカーテンが風に揺れている。
 何だか馬鹿みたいに空が晴れていた。ぷかぷかと浮かぶ雲が、平和そのものだった。
 その雲と同じくらい真っ白な病室。
 クルースニクとユウリィは目も合わせる事無くただそこにいた。
 クルースニクはまだ体調が芳しくないのか、枕を背もたれ代わりにベッドに座っていた。ユウリィはそのすぐ隣の椅子に。会話はない。先程からずっとこの調子だ。
「兄さん。何か果物でもどうですか」
「いや。……いい」
 クルースニクの態度は、明らかに不自然であった。自分に9つも離れた妹がいる事が未だに信じられないのだろう。
 兄の記憶はまだ戻ってはいない。妹の事も、孤児院の事も、ブリューナクの事も、彼は何一つ思い出す気配がなかった。その所為か随分と肩や目元に力が感じられない。
 突然クルースニクが頭を片手で抑えて呻いた。
「……兄さんッ……どうかしましたか?!」
 急に俯き頭を抱えたクルースニクに、ユウリィは焦って呼びかけた。
 手を伸ばす。彼のどこになら触れてもいいのか分からない。
 彼を刺激したくはないけれど。
「痛むんですか……?」
「……っ」
「兄さん……ッ」
「平気だ」
「でも!」
 しかし、ユウリィからは何もしてあげられない。歯がゆい、と思った。自分に出来るのはせいぜい手を繋いでいてあげるとかそんなつまらない事くらいだ。こんな事くらいで兄が楽になるとは思わないけれど。
 ぎゅっと握ってあげると、クルースニクはその茶色の瞳をユウリィに向けた。
「何でもない……大丈夫だから」
 記憶を失ってもなお、妹には心配をかけまいとする兄。
 ユウリィの胸は痛んだ。
 気付けば兄の顔には脂汗が浮いていた。
 そんなに、痛むのか。彼の指が痛いくらいにユウリィの手に食い込んだ。
 その痛みを何とか無視して呼びかける。
「そんな顔して、大丈夫なわけが……っ」
 クルースニクはそうやってしばらくの間うずくまっていたが、1分程経った頃ようやくそろそろと動き出した。
「……すまない」
「大丈夫ですか……? もう痛まないですか……?」
「ああ……すまない」
 そしてそっとユウリィから手を離すと、爪の跡がついた彼女の手に気付いた。
 そこだけ赤い。
 クルースニクは眉を顰めてそれに見入った。
「……俺がやったのか」
「気にしないで下さい」
 にこりと微笑んで見せると、彼は申し訳なさそうに目を逸らした。
「すまない……」
「兄さん」
「これが君の兄なのか……そう思う。せめて記憶をと望むがその度にこの状態だ。情けない限りだ」
「情けなくなんて……兄さんは兄さん、それだけです」
 生きていてくれたのだから。
 文句などある筈もない。
 そして今後も生きていってくれるのなら、どうして不満などあるだろう。
「……ありがとう」
 静かに微笑むその姿が、確かに兄を感じさせるのに、どこか儚さもあって。
 ふわと消えてしまいそうで。
 思わずユウリィはクルースニクにしがみついた。
「……ユウリィ?」
 いつもより少しぎこちないその名前の呼び方に、泣きそうになる。
 わたしの名前は、そんな呼び方じゃない。
「無茶しないで下さい……頭が痛くなるのは、無理に記憶を引き出そうとしているからですよね?」
 クルースニクは反応を示さない。
 それが肯定の印だった。
「無理して記憶を思い出さなくても大丈夫です……」
 あなたさえ、ここにいてくれるのなら。
 わたしも辛いけど、そんなの我慢できる。
 記憶がないのなら、新しい記憶をまた作るだけ。
 ……わたしは、兄さんの傍にずっといるから。

 白いカーテンが揺れている。
 風が強くなり始めている。

「窓、閉めますね」
 そう言って、クルースニクからそっと体を離して、窓に近付いた。
 その瞬間一際強く風が吹いた。
 ふわとカーテンが揺れて。ユウリィの体にまとわり付いた。
 白い腕に掴まれる、一瞬そんなイメージに囚われて、身をびくりと震わせた。
 何でもない、ただの強風。
 だけどふいに。
 自分を実験室へと連れ込む白衣の男性達を思い出す。
「嫌……っ」
「ユウリィ!」
 それを救ったのは、やはり兄だった。
 ベッドから飛び降りて、その右腕を強く引っ張った。
 ユウリィはよろけて彼の胸に倒れこんだ。
 それを、そっと。
 彼は包んで。
「どこへも、やらない。お前を守るから」
 考えるよりも先に、腕が伸びた。
 自分は知っている、何か怖い事が起こった時には……
「お前を誰にも近づけさせない」
 大好きな兄がいつも守ってくれていた。
 腕を、彼の体へまわした。
 彼の肩に触れて、思い出す。息をつく。ようやく安心できる。
「昔はいつも、こうして兄さんが守ってくれてましたね」
 兄の腕は温かくて。優しくて、静かな愛を感じた。
「……ああ」
 しみじみと納得するような兄の言葉に、ふと我に返る。
「……兄さん」
 今の彼の目は、昔のそれと同じだった。
 辛いものを背負っているが、それを兄には妹には見せまいとする意志が。
 妹はとっくにそれには気が付いているのに。
「分かるよ……お前の事が」
 ユウリィが言葉が出ずに馬鹿みたいに兄の姿を見つめていた。
 本当に?

 白いカーテンは、それを歓迎するように揺れている。
 カーテンから見える隠れる青い海、白い壁。

 クルースニクはゆるゆると指を動かし、白いカーテンを摘んだ。
「これが、白衣の男達に見えたんだ……それで、助けなければと思った瞬間に、全てがはっきり見えた」
 兄も、このカーテンに同じものが見えたのだ。
 兄にとっても妹にとっても、それは鎖や蔦のように絡みつく。
 どんなに、離してしまいたくとも。
「兄さんっ……わたしの事が、分かりますか?」
「ああ……分かるよ、はっきり分かる」
 クルースニクは指を離すとユウリィの頬にそっと添えた。

「……ユウリィ、俺のユウリィだ」

 彼の手を支えながら、ユウリィはいつしか涙を流していた。


つづく


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