ペトナジャンカに滞在する事になった、ある夜。
夜半だというのに機械の音が止む事は無い。これこそ、ペトナジャンカの特徴であるのだ。それ程遠くではない所にある工場から、がしゃんがしゃんと機械ががなりたてている。
ヒューマより耳がいいガジュマであるユージーンは、その騒音の所為でどれだけ経っても眠れそうに無かった。ヒューマならば気にしないのであろう、この街の騒音対策はお粗末なものだった。
仕方ないので、寝床に入ってもなお本を読み続けていたユージーンは、突然扉をノックする音に気が付いた。
マオだろうと判断する。こんな夜更けに何の用なのか…あの悪戯好きの少年は時折夜中にやってきてはユージーンに構ってほしそうにするのだった。
まるで、息子なのだ。自分はこうして未だ独身であるのに、既に子供を持っているような気分にさせられている。そして最近は、自分にもうひとり子供が増えたようだった。
そのもうひとりの子供。アニー・バース。勿論実の娘ではない。実の娘のように可愛がっているという意味であり、血の繋がりは無い。ユージーンはアニーの父親と交流があり、赤ん坊の頃の彼女を知っている事を考えたら、ある意味マオよりも長く深く彼女の事を知っていると言えるかもしれない。よもやこのように旅を共にするとは想定してはいなかったけれど。
あの子が。アニーが、可愛くて仕方ないのだ。最近になって、お互いの行き違いに気付き。アニーは反省し、謝罪をした。ユージーンに抱き付き、「ごめんなさい」と何度も言っていた。あれ以来、自分たちの仲が急速に深まっている印象を覚えた。
新しく出来た娘の事を心から可愛く思いながら、その事など微塵も感じさせぬ様子でユージーンは扉の向こうの主に向かって声をかけた。
「どうぞ」
しかし、現れたのは意表を突く人物だった。
「…アニー?」
ユージーンが見るのは初めての、ピンクのパジャマに身を包んだアニー。自分の枕を抱えた彼女は紛れもなくそこにいた。真夜中が見せる幻影ではない。
「どうしたんだ、こんな時間に」
言って、答えを聞かぬ内に何かあったらしい事を判断した。アニーの体は小さく震えている。訳もなく、心臓がうるさくなるのを覚えた。
まさか、自分の娘が何か危ない目に遭ったのでは。
「話はあとだ。とにかく…入るんだ」
ユージーンは廊下を見渡し、誰もいない事を確認するとアニーを部屋に入れた。
ユージーンが扉を閉めると、アニーは少しだけほっとした表情を浮かべた。助かった。その顔はユージーンにはそう読み取れた。
「それで…何があったんだ」
しかし、アニーの説明でユージーンの心配は杞憂に終わった。終わったけれど、それを聞いた事でユージーンに新たな問題が発生したのだった。
「あの…ね。マオが怖い話した所為で眠れなくなっちゃったんです…」
「ふむ」
「だから…あの…ベッド、半分借りてもいいですか?」
耳と尻尾を、ぴくぴくと動かし。アニーの言葉を何度も脳内で反芻した。言っている意味が、一瞬掴めなくて動揺する。この子は一体何が言いたいのか。
つまり、は。アニーはユージーンの隣で眠りたいと言っているのだ。ようやくそれに気付き、ユージーンは慌てふためいた。尻尾でぱしぱしと地面を叩く。
自分にとってアニーは娘である。アニーにとってもユージーンは父親だろう。それは分かっている。けれど実際のところはただの男と女であるのも事実で。同衾など、良くない。何もしない。誓って彼女には何もしない。そう約束してお互い納得したとしても、周りが何と言うか分からない。自分が責められるのならば謗りは受ける覚悟ならばいくらでもあるけれど、それがアニーに向かうのはいけない。この子が傷つく様など見たくないのだ。
…いや、そもそもそれならばアニーがユージーンのベッドに来なければいいわけで…。
そこまで考えて、ユージーンははたと気付いた。それならば、アニーは誰のベッドに行ったら良いのだろう? ヴェイグ…これは却下。ヒューマの男と同衾するなど自分が許さない。それならティトレイ…これも同様の理由で却下。マオ…は、先程の理由があるゆえにアニーは行きたがらないだろう。それなら、残るはヒルダか。ヒルダ。彼女ならば女だし、問題は無かろう。ユージーンは自分の部屋を去り、ヒルダの元へ行くように勧めた。
「俺の所にではなく、ヒルダの所で行ったらどうだ。彼女なら、…」
しかし、アニーは最後まで話を聞く前にぶんぶんと首を横に振ったのだった。
「いや、です」
「なぜだ」
「ユージーンと一緒がいいんです」
詳しい理由も話さず、ただただユージーンの隣で眠りたいとばかり言う彼女。話が平行線になっているのを感じて、ユージーンは軽くため息をついた。
「迷惑は、かけません。だから、ここにいさせて下さい」
「いや、だが、…」
狼狽えるユージーン。怖いと言うならば、怖くなくなるまで傍にいてはやりたいけれど、さすがに同衾というのはどうなのか。思案するユージーンに、畳み掛けるようにアニーは言葉を繋いだ。
「だめ…ですか?」
そこでアニーが見せたものは、潤んだ瞳での上目遣い、だった。
大きな瞳にじっと見つめられて、降参だ、とユージーンは軽く肩を竦めた。
「…来るんだ」
その言葉を了承と取ったのか、アニーの顔が急にぱっと輝いた。
「わたし、ユージーンの隣で眠ってもいいんですか?」
「ああ、いいだろう。…ただし、明朝すぐに自分の部屋に帰る事。これが条件だ」
「どうしてですか?」
アニーときたら、本当に分かってないのだ。上手く説明出来ず、ユージーンははぐらかすようにアニーの背中を支えた。
「本を読んだらいいのか? それとも、ポチョムさんの話でもしたらいいのか? どうしたら、アニーの中の恐怖は去るんだ」
アニーはユージーンの真剣な眼差しに、ようやく少しだけ笑みを浮かべて。
「ううん…何にも、してくれなくても大丈夫。でも…」
「でも?」
「でも、手だけ、繋いでもらっていてもいいですか? わたしが眠るまで、わたしの事、見ててもらっていてもいいですか?」
「いいだろう」
「…ありがとう…わたし、ユージーンがいれば、怖くないです」
差し出された手を、アニーはぎゅっと抱き締めるようにゆっくりと繋ぐのだった。
*
明朝。
手に痺れを感じて、ユージーンはもそもそと目を覚ました。
薄く開けたその視界に、見慣れぬものが目に入ってユージーンは一瞬にして覚醒した。
アニーが、隣ですやすやと寝入っていた。
無防備だ。あまりに無防備、なのに繋がれたままの手を離す事すら出来なかった。起こすといけない、と思うと身じろぎひとつ出来ず、ユージーンは目をすっかり覚ましてしまったというのに背伸びさえ出来なかった。
ヒューマとは、このように眠っているのだ。その様を初めて目の当たりにし、妙に感慨深い気持ちになる。ガジュマとは変わらない。結局ガジュマとヒューマの間に、さしたる差は無いのだ。
アニーの掌は冷たくは無く、しかしながらガジュマの平均体温よりは幾分低いように思われた。そこまで考えて、ユージーンは昨夜自分が言った事をアニーが守っていない事に気が付いた。
<明朝すぐに自分の部屋に帰る事>
それが、ここに泊める条件だと言った筈だ。怖い話を聞いたから眠れなくて、などと言う説明では、おそらくユージーンと、当事者であるマオしか納得しない。何かあった、と考える方が自然だ。そのうちティトレイ辺りが大騒ぎするのは目に見えている。
ここで。今すぐに、アニーを起こして部屋へ返せば。おそらくは、何事も無く済むだろう。しかしどうしてもユージーンはその手段が使えなかった。このように平穏な顔で、ぐっすり眠り込み、無防備な赤ん坊のような顔を晒すアニーを起こすのは少々忍びなかった。
もう少しだけ、アニーを眠ったままでいさせてやりたい。空いた方の手で、そっとアニーの髪の毛に触れようとして。
そこで、妙に扉の向こうが騒がしいのに気が付いた。ガジュマ特有の耳の良さで、次第に何と言っているのか聞こえてくる…。
『ボクの所にも来なかったよ』
『おかしいわね、それじゃ一体どこにいるのかしら』
『それじゃやっぱり行方不明か? それとも、誘拐かッ?!』
『そんなわけは無い。きっと、この近くにいる筈だ』
いなくなったアニーを心配して、仲間たちががやがやと相談しているらしい。まずい、と考えるも繋いだままの手が邪魔をする。これではベッドから出る事もままならない。
『そういえば、ユージーンの所へは行ったか…?』
『あ。ううん、行ってないヨ!』
まずい。と思う頃には。あっという間に足音は近付き、マオ特有の遠慮の無さで、ノックもせずに扉は開かれて。
…そしてそのまま、ヴェイグ・マオ・ティトレイ・ヒルダは固まった。その4人に何とも言えない生暖かい視線で見つめられたまま、ユージーンもつられて固まる。その傍にはユージーンの手をしっかりと握ったまま寝入るアニー。ピンクのパジャマからは鎖骨が覗いていた。
「…」
「…」
「…」
「これは…だな…」
言い訳がましく何かを言おうとすると、マオは黙ってそれを制止した。手を伸ばして、それ以上は言うなと合図する。そしてどこかニヤニヤした表情を浮かべると、ティトレイたちともにそうっとそうっと一歩ずつ後退してゆくのだった。扉まで戻ってくると、意味深な笑みのまま、ティトレイとマオはこう告げた。
「ごめんネ、邪魔して」
「お、おい…っ」
「お幸せにー…」
ぱたん。扉は閉められて。
そのまま、硬直したままのユージーンと、それでも起きないねぼすけアニーだけが残された。
「俺は…どうすれば、いいんだ?」
呻く。隣のアニーが、んー、と少し寝言を言っている。
「ユー…ジーン…」
一体彼女は、分かっているのかいないのか。マオのあの様子から、判断するに。明日からきっと恋人同士のような扱いを受けるだろう。それだけならまだしも、これからは宿代を浮かすために「ユージーンとアニーは同室ね」などと言われかねない。
「俺は、一体どうすれば…」
こんこんと安心しきって眠り続けるアニーは、未だに目を覚ます様子が無かった。
おしまい
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