お守り |
ついに、戦が始まる。 ねねは出陣する事になった小太郎とひととき、話をしていた。ねね自身は今回後方援護という形で参戦している。前に出る事はなく、割と楽な立場が回ってきたのは幸運だった。それにも関わらず、ねねの顔は晴れない。それは小太郎が出陣するからだったからだった。それも先陣を切って戦場を撹乱する役目と聞いた。忍びとしてはこの上ない名誉な役目ではあるけれど、それを思ってみてもねねの気分は晴れなかった。 なぜ、それが小太郎であるのか。他の誰でもいい、出来る事なら小太郎以外の誰かと代えてもらいたかった。小太郎が危ない目に遭うのは、嫌だから。 しかし一介のくのいちでしかないねねが何を言っても聞き届けてくれるような大名ではない。小太郎を戦に出させると決めた事、それには何らかの意味があるとは思うけれど、ねねはそれでも私情にまかせて怒りさえ覚えていた。 どんどんと太鼓を叩く音に、召集がかかっているのをねねは感じた。時間が無い。何より小太郎を激励する時間が。ねねは懐から紙切れを取り出すと、小太郎に見せた。 「これ、ね、小太郎を思って引いたおみくじなの。ほら、大吉でしょ?」 ねねは小太郎の手を取ると、ぎゅっとその手に大吉のお守りを握らせた。小太郎は不思議そうな顔をしながらも、特に逆らいはしない。 「大吉なんて滅多に見られないんだから。…このおみくじが、きっと小太郎を守ってくれるよ。だから持って行きなさい。それで…ちゃんと生き残るんだよ?」 不安がってはいけない。ちゃんと小太郎を励まさなければ。そうは思うのに、ねねの手は震えが止まらない。戦場に向かう小太郎は、自分などよりきっと心細いに違いないのに、それでも語尾が曖昧になるのは誤魔化せそうに無かった。 「…なぜ」 「え?」 「なぜ、うぬはこれほどまでに我を気に掛ける?」 「小太郎が大切だから。あたしにとっては失くせない大切な子だから、だよ」 小太郎は表情を変えなかったが、僅かにおみくじを握る手に力が篭ったようにねねには感じられた。それよりねねには今更小太郎が何を訊いているのか、といった感じがした。大切でなければこうして一緒にいたりはしないし、おみくじだって引いたりしない。 「…急に変な事訊いてどうしたの?」 「…いや、何でもない」 再び鳴る太鼓の音に、とうとう二人は引き裂かれる。小太郎はくるりとねねに背を向けて去っていく。遠ざかるその背中に、ねねは小声で呟いた。 「…いってらっしゃい」 今日この時のために、小太郎の無事を願って何枚も大吉を出した。渡したのはその一枚に過ぎない。あれだけ大吉があれば、きっと大丈夫。…そう思いたいのに。 不安感は、拭えなかった。 * 不安が的中した、と感じたのはその凶報が届いたからだった。 「…敗退…って」 ねねはごくりと唾を飲んだ。戦力差に思った以上の差があり、こちらが負けるという事態になったと知らせが入ったのだ。次に考えたのは小太郎の事だった。先陣として参加した小太郎は、今頃どうなっているんだろう。また、それに続くように参戦した夫・秀吉の安否も気にかかる。ねねが参戦する間も無く戦が終了したのは、ある意味では幸運だがおかげで彼らが帰ってくるまでは安心して眠れそうにもない。 「どうか…無事で」 傷だらけでもいい。でも、どうか生きて帰って来て。ねねには祈る事しか出来ない。 祈りの甲斐があったのかどうか、第一陣がようやく帰って来たとの報告があった。 きっと小太郎がいる。そうねねは直感して、慌てて人が群がっている辺りに近付いた。辺りにはむうっとするような血の匂いが立ちこめ、あちこちで阿鼻叫喚の声が上がっていた。ここまで戻ってきたはいいものの、処置の施しようが無く死を待つのみの無い兵士を所々で見かけてはねねは無残さに目を逸らした。小太郎があんな風であるかもしれない、と思うのはそれだけでも嫌だった。視線を右に左にと忙しなく動かし、ついに目的のその人物を見つけた。ねねが駆け寄るとともに、その人物もねねに向かって歩いてくる。 「ああ、小太郎、良かった! 生きてたんだね」 血だらけで汚れてはいるが、それでも命に別状は無いらしい。珍しく元気も無さそうにふらふらと歩いているのが気になるが、単に疲れ果てているのが原因だろう。 小太郎はねねの前にまで歩み寄ると、握っていた左の拳を開いてねねに見せた。 「ん?」 掌にあったのは、ねねがあげた大吉のお守り。ずっときつく握り締めていたのか、すっかりぼろぼろになってはいるが、確かにねねが祈りを込めて引いた一枚だった。 「これが…我を守ってくれた。…そのように、思う」 「そっか…。うん、とにかく良かったよ、小太郎の役に立てて」 小太郎が無事ならいい。それに自分が少しでも役に立てたなら、すごく嬉しい。戦の半ばでも小太郎がこれを握り締めていたのかと思うと、緊張感も無く心が温かくなる気持ちを覚えた。小太郎が生きてここに戻ろうと思うだけの力を、このおみくじは備えているのかもしれない。 小太郎と向かい合いながら、ほのぼのとした気持ちでそのおみくじを二人して覗き込んでいるとそこに早馬がやってきた。次の隊の帰還完了か。そう思ったねねに浴びせられたのは、心臓がひやりとするような報告だった。 「失礼致します! 秀吉様、消息不明との連絡が今入りました!」 嘘。 最初に感じたのは、その一言だった。 「嘘、そんなの…っ、うちの人が行方不明なんて!」 「これは、おねね様、」 ばつが悪そうに、報告主は言う。よもやここにねねがいるなどとは知らずに発言したのだろう。ねねは驚き慌てて、その男を捕まえて激しく問い詰めた。 「うちの人は、うちの人は何処にいるの?!」 「いえ、ですから…」 「嘘、そんなの、嘘だよっ! うちの人が…、なんて」 「申し訳ありません…」 「お前様…っ」 混乱に、頭がぐるぐるする。一体自分が何を考えているかもよく分からない。あの人が行方不明。よくて人質。悪くて。… 最悪な想像に吐き気さえ感じていたところに、ふと小太郎からの視線を感じてねねは見上げた。小太郎をこちらをじっと見つめている。感情の見えない、冷たい空の色。 「…小太郎?」 「我が行こう」 「え?」 信じられない小太郎の発言に、ねねは戸惑う。 「うぬには秀吉が必要なのだろう?」 「それ…って…ダメだよ、そんなの危険だよ!」 今から秀吉を救出しに行く。小太郎はそう言っているのだ。小太郎が仕出かそうとしている事の大きさに、ねねは首を横に振った。が、小太郎は聞く耳持たぬ、といった風情で左の拳を握りなおした。自らの左の拳を見つめるその眼差しは今までに見た事が無い程落ち着いていて、人間味がある。 優しい目だった。 「…我には、うぬからもらった守護がある。問題無い」 「小太郎!!」 慌てて腕を引っつかむ。けれどもそれより早く小太郎は風となって消えてしまった。ひとりきりになってしまったねねは、まだ事が飲み込めずにその場にぽかんとしていた。 「だって…小太郎だってあんなに疲れてる筈なのに…」 小太郎が行ってしまった。秀吉を探しに。 秀吉がいなくなった。この報告は信じる事が出来ない。その秀吉を助けるために小太郎が助けに行った。この事実はもっと信じる事が出来そうにない。 ねねに出来るのは、混乱した頭を冷やすためにその場に立ち尽くすのみだった。 * 状況が動いたのはそれから半時足らずの頃だった。 次の隊が帰って来たという。ねねは慌ててそちらに向かった。小太郎か、秀吉か。両方に無事に帰ってきてほしいとは思っている。が、自分でもどちらに「先に」帰って来てほしいと願っているのか分からない。 帰って来た隊の旗を見て思わずねねは声を上げた。秀吉の隊だ! 「お前様、何処っ?!」 大声を出して夫を探せば、掌をぶんぶんと振って主張する人を見つけた。 「お前様あ!」 「ねねー、ここだぞー」 「お前様! 無事だったんだね!」 駆け寄って姿を確認してみれば、そこにはくたびれてはいたが無事な姿の秀吉があった。 「何とかな。やれやれ、途中であの忍びが来てくれんかったらさすがのわしもどうなるか分からんかったわ。あの忍び、ねねからのか?」 「え? 何の事?」 「ほれ、あの忍び。わしたちが苦戦しとるとこに突然現れてあらかた敵を退治してくれた、あの」 「…!」 ぞっとした。忍び。自分はそれが誰なのか、知っている。 もはや秀吉の無事を祝っている場合ではなかった。もしかしたら間に合うかもしれない。ねねは駆け出した。 「お前様、馬、借りるよ!」 「お、おい、ねね?!」 「ごめんね! 今は無事を喜んでる暇無いの!」 疲れ果てているだろう秀吉の馬に鞭打って、駆け続ける。ねねの胸の中には何かもやもやとした感情が渦巻いていた。行かなければいけない。行かなければいけない。行かなければ。 ねねの中にはただ小太郎を救わなければという思いでいっぱいで、自分の中にある矛盾には気が付いていない。夫の秀吉がいなくなったと聞いた時にはその場に立ち尽くすのみであったのに、今こうして小太郎が行方不明になったと聞いた時には矢も盾もたまらず駆け出している事を。 「小太郎…うちの人を助けるために、わざわざ出てくれたんだね?」 どうしたらいい。秀吉が無事で嬉しい。でもちっとも嬉しくなんかない。 「小太郎、小太郎、何処にいるの?」 既に戦場は双方ともが撤収を完了しており、ただ殺伐とした荒野が広がるばかりだった。おそらくここが戦場の中心だったところと思しき場所に着くと、今度は馬を下りて馬を引きながらその場をうろうろし始めた。その場その場に死体が転がって腐臭が漂い始めている。カラスがからかうように泣き喚くその場所を、ねねはひたすらに小太郎の名を呼びながら徘徊し続ける。 「小太郎ーっ!」 返事は無い。 と、その場に何かを発見してねねは屈みこんだ。何の気無しに拾い、そして息を飲んだ。 「大吉の…おみくじ」 小太郎はここに、いた。けれどもう、ここにはいない。血で薄汚れてぼろぼろになってはいるけれど、それは間違いなくねねが小太郎にあげたお守りだった。 それは、小太郎の生存を祈るための、お守りだったのに。誰か他の人じゃない、小太郎が生き残る事を信じて渡したものだったのに。 「小太郎、嫌だよ、あたし、こんなの」 ねねはそのおみくじを両手で包むと、胸に抱き締めた。ぽろり、と堪えきれなくなって涙が零れてくる。こんな事なら、おみくじなどあげるのではなかった。 「小太郎、行かないで…」 こんなおみくじひとつ残して。 おしまい |
■あとがき |
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