蜜柑の匂いと雨の気配 |
ぽつり、と雨が降り出していた。 ねねはひとり、館の中でひっそりとしていた。特にする事も無い。特にこんな、秀吉が遠くに行っている時には。 雨の他に音は無い。ねねはただ黙りこんでいる。侍女も今はねねの傍にはいなかった。 ただねねがしている事といえば、先程からずっと俯いては何事かを考える事だった。天下取り、といつも騒がしい人がいなくて、その子飼いの武将たちも出払っているとなれば、自然とこの屋敷は静かにもなる。話し相手もいなければ、ねねも黙らざるを得なかった。 ぽつり、と雨脚は強くなっていく。 「我を…呼んだか」 突然、ねねの横に現れた人物。赤い髪の偉丈夫だ。彼の姿を認めると、ぱっとねねの顔が華やいだ。今まで落ち込んですらいたような雰囲気は、すっと晴れていく。 「小太郎! 来てくれたんだね」 彼は風魔小太郎。北条家に属する忍者で、本来ならばねねとは敵同士に当たる。だが、同じ忍者だからとねねが一方的に共感を覚えているからなのか、友達のいないらしい小太郎にねねが哀れさを催しているからなのか、二人は妙に仲が良かった。秀吉の与り知らぬ所で共闘した記憶も、二人にはある。 このようにして、ねねが時々小太郎を自分の屋敷に小太郎を呼び寄せる事があった。理由はそれぞれで、話し相手になってもらうためだったり、小太郎の健康管理に口を挟んでみるためだったり、小太郎が任務で拵えた怪我に口を酸っぱくして叱ってみるためだったり、とりあえず言えるのはねねのお節介である事が大半だった。だから小太郎はねねの呼び出しに応じない事もある。しかし今回のように素直にやってくる事もある。犬を愛する彼だが、行動は気紛れな猫そのものなのだった。何がしかのつまらない理由で叱られる、それを分かっていてねねの元に訪れる辺り彼は秀吉子飼いの正則や清正と何ら変わりないのだった。 「あたし、嬉しいよ」 「…」 小太郎はねねの隣に音も無く座り込むとねねに果物を差し出した。贈り物のつもりらしい。ねねはにこにこしながら礼を言う。小太郎は何も喋らない。いつも二人はこうなのだ。ねねが9割がた喋っていて、小太郎は聞くでもなし聞かないでもなしで隣にいる。それでもねねは話し終わったあと小太郎に文句を言うどころかちゃんと聞いてくれたと礼を言うし、小太郎は小太郎で鷹揚に頷いている。 「今日は蜜柑を持ってきてくれたんだね。嬉しいよ、あたし蜜柑大好きだから」 小太郎は返事すらしない。それでもねねは小太郎が隣にいてくれて嬉しいのか、上機嫌で蜜柑の皮を剥くと半分を小太郎に手渡した。小太郎はやはり無言で受け取る。 二人で蜜柑を食べながら、外の景色を見つめた。 外は薄暗い。雨は降り続いている。 それはまるで、自分のようだな、とねねはふと思った。もうすぐ天下は秀吉の下に統一される。もう誰も誰も争わなくて済むし、ねねの知る誰かが傷つく事も無くなるのは喜ばしい。けれど、ねねの気分はこの景色と同じで、けして晴れやかにはならない。なぜか。 「…」 それを思うと、今も胸が痛む。小太郎が隣にいても、気丈になんてなれなかった。 いつも自分は誰かの「お母さん」。それを不満に思った事は無いし、自分を慕ってやってくる人間はみな可愛い。けれど、自分はいつしか「母」である事に馴れすぎて「女」である事を失っていたのだ。 「…うちの人がね」 ぽつ、とそうねねが告げた。小太郎は無言で言葉の先を促す。 「茶々の所にね、行ったんだ。…随分前に。…帰って来ないんだよ」 ほう、と微かに相槌が入ったのは、気のせいか。 「…あたし…、おかしいよね。ほんとの奥さんなのに、うちの人が茶々の所に行くの、止められないなんて」 秀吉とねねの間には、子が無い。それは他のどの側室にも言える事で、だから秀吉は種が無いのだとねねは何処か安心していた部分もある。他に女を作るのも本当は嫌だけれど、それは秀吉が天下に近付いた今最早ねねが止められる部分では無かった。 けれどその均衡が茶々が来た事で崩れた。お市の娘に当たる茶々を、殊更秀吉が溺愛しているのは彼女が側室としてやってきた時点から気付いていた。秀吉がお市に懸想していたのは知っていたからだ。茶々を手元に置く事でお市の存在を感じ取りたいからなのか、秀吉はいたく茶々を可愛がった。 その結果、茶々は秀吉の子を産んだ。 その事実にねねは戦慄した。今までは秀吉にその原因があると確信してたのに、本当は自分に原因があったのだ。子供を産めない体。どれだけ自分自身を憎んでも、この結果は変わらない。自分に子供を産む力があれば良かったのだろうけれど。 側室が正室に勝る。こんな異常事態を。 茶々の子が秀吉のあとを継ぐのだろう。そして自分の場所は何処にも無くなる。茶々は子供を産んだ事でますます秀吉からの寵愛を受けるだろう。そして自分は隅に追い遣られて、思い出してくれる事さえ無くなる。 自分は、正室、なのに。 雨は未だに降り続いている。 「ごめん、こんな湿っぽい事言っても何にもならないよね。聞いてくれてありがとね、小太郎」 何だか泣きたくなって、でもねねにとっての子供のひとりである小太郎の前では泣けないから。たくさんの子供たちがいる以上、泣いてなんていられないから。ねねは無理に笑顔を作ると、小太郎に微笑みかけた。小太郎の、冬の晴れた空に似た色の瞳がじっとこちらを見つめていた。 彼とて忍者なのだから、ねねの周りの事情は察しているのだと思う。けれどそれを口に出させたくは無かった。母は強くなければならないのだ。子供に同情されているようではいけない。 「…好きにせよ」 何を指してそう言ったのか、小太郎は溜息とともにその言葉を吐き出した。そして更に蜜柑を2、3個と手渡してくる。小太郎なりの気遣いのつもりらしい。 「ありがとう、小太郎は優しいね」 にっこり微笑んでも、やっぱり彼は無表情。けれど。 小太郎の優しさに、傷ついていた心が少しだけ癒されていった。秀吉が近くにいない事に、その心がこちらに向いていないのに寂しさを覚える日もあるだろう。けれどここには優しい人がいてくれる。 雨は降り続いている。だけどそれだけじゃない。言葉にはしなくても、ねねの寂しさや怒りを受け止めてくれる人がいるから大丈夫。きっと大丈夫。 おしまい |
■あとがき |
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