その終わり |
秀吉が死んだ。 慶長3年、彼が死んだのは夏の盛りだった。 秀吉の臣下に呼ばれて、ねねはばたばたと秀吉の部屋まで駆け込んだ。時は既に遅く、秀吉はここではない世界に旅立っていた。荒い息を整えて、ねねは静かに声を掛けた。 「お前様…?」 いつもならば、竹を割ったような返事が返ってくるのに。 「…」 天下に辿り着いてからというもの、ねねから見ても秀吉は少しおかしくなっていたように思う。何処が、というのは上手く説明出来ない。日の本を手に入れるだけでは飽き足らず、余所の国にまで行くように指示した秀吉。昔だったらきっとそんな命令はしなかったのに。 黙りこくる秀吉。そこには過去の面影は何処にも無い。お互いに好きあって結婚をした、あの時の秀吉はちらりとも残ってはいなかった。 布団の中に冷たくなった四肢を入れ、目を閉じたまま開かない秀吉の姿をねねはじっと見つめていた。泣く、と思った。けれど涙は出なかった。激しい衝撃は体中に押し寄せていたけれど、全て喉元で止まっていた。 これで、自分は楽になれたのだ。 最初に感じたのはそんな感情だった。 両手で顔を覆って、人にそんな浅ましい事を考えている自分を悟られまいとした。そうだ、秀吉が亡くなったというのに自分ときたら一体何を考えている。これでもう秀吉が他に女を作る事は無くなった、などと。これでもう、ねねの視界の利く所にいてくれるようになった、などと。 秀次の件や、朝鮮出兵の件など、彼の判断がどう見ても誤っている事に怯えすら感じていた。彼はねねの知っている秀吉とは違う人間に成り果てたのだと。…そうだ、そして変貌は終わった。もうこれ以上、ねねの知らない秀吉になる可能性は無い。きっとずっと傍にいてくれる、と。 「嫌…ッ」 叫び出したのは、秀吉の死が認められなかったからではない、そんな事を真剣に考えている自分に気が付いたからだった。目の前で眠る秀吉に向かい合えない気持ちを覚えて、ねねはその部屋を飛び出した。 「何処へ行かれるのです、おねね様!」 三成たちの制止も、ねねを止められなかった。 * 何処まで走っただろうか。無心でひたすら走り続けていたら、屋敷の端にまで出てきてしまっていた。庭に裸足のまま出てきてしまったのが、自分の混乱ぶりを如実に表していておかしかった。 「う…」 吐き気さえ、覚えた。これからどうしたらいい、という迷いもある。自分の身の振り方だって、ある程度は考えを巡らせておかなければならないだろう。次の天下人はきっと家康殿。秀吉が死んだばかりなのに不謹慎極まりないが、家康にはそれとなく自分の意思表明をしておいた方がいいだろう。 …そうだ、不謹慎なのだ。彼の死に対して自分はもっと衝撃を受けるべきであるのに、冷静に次の事を考えている。 「お前…様…」 「何をしている」 突然、横から声が掛けられた。はっとしてねねはそちらを向く。 「こたろう」 そこにいたのは風魔小太郎だった。いつものように無表情で、でもねねがいてほしい時に傍にいてくれる人。何も訊かないのは、おそらく事情を全て理解しているからなのだろう。 じわじわと、冷めていた筈の感情が噴き出してくる。心臓がごうごうと鳴って、うるさくて、そしてとても痛かった。 「来てやった。うぬは…我を、欲しているのだろう?」 欲している。来て欲しかった。他の誰にも言えない事でも、小太郎にならどうしてか言えるから。 そうだった、とねねは今更のように気付くのだ。浅ましい事を瞬時に考えたのも、秀吉への愛が失せたからではない。むしろ逆で、彼を失ったその奥の悲しみに心が及ばないように自制した結果の行動だったのだ。秀吉の部下達が大勢集うあの場所で、ねねを慕う者達がたくさんいるあの場所で、我を失って号泣する事など出来ないから、咄嗟に違う事を考えたのだ。 小太郎の、前でだけ。今だけ。母である事を忘れよう。ほんの一瞬だけ、甘える事を許して欲しい。 「小太郎…っ」 もう、耐え切れなかった。ねねは小さな体で小太郎に抱きつくと、今度こそわんわん声を上げて泣き出した。 「お前様、お前様、…っ」 小太郎を強く抱き締めながら、あの人を想っているのも、呼んでいるのも変な話なのかもしれない。けれど今のねねにはそのおかしさは認められなかった。 小太郎はきつく抱き締められても抵抗ひとつしない。その代わり抱き返す事もしない。今はその距離感がありがたかった。それこそが、ねねが今必要としているものなのかもしれなかった。 秀吉の死。ひとつの時代の終わり。そして豊臣政権の終わりが近付いていた。 おしまい |
■あとがき |
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