こころはここにある


「あれ、お出かけかい?」
 土曜の朝。
 晶乃が見慣れない服を着て玄関にいる。…初めて見る服だ。そういえばカードの明細に買った覚えの無いものがあった気がする。カードを渡すんじゃなくてお小遣い制にした方がいいかな。この頃晶乃はよくカードで色々なものを買っているみたいだから。所詮高校生の買い物だから金額なんてたかが知れているし、勿論僕のお給料で払えない額じゃないけれど、晶乃の教育上いつでもお金を引き出せる環境というのは良くない気がする。
 僕は花に惹かれる蝶みたいに晶乃に寄っていった。晶乃は僕に背を向け靴を履いている最中だ。顔が見たいのに、晶乃は背中しか見せてくれない。
「うん、杉田のところに行ってくるね」
 一瞬何を言われたのか分からなかった。思わずぽかんとしてから、それがデートなのだと理解する。
「…、ああ、そうなんだ。気を付けて行って来るんだよ。車の飛び出しには気を付けて。あんまり夜遅くまで遊ぶん じゃないよ、節度を持って正しい時間に帰って来るんだよ」
「もぉ、お兄ちゃんったら。わたし子供じゃないんだから平気よ」
 子供じゃないから、気にしてるんだよ。
「じゃあ行ってくるね、お兄ちゃん」
 晶乃はふわっと微笑むと、扉の向こうに消えた。一瞬だけちらっと見えた晶乃の顔。…すごく楽しそうだね。
 その笑顔は僕のためのものではなくて、あの子のものなんだろうけど。

 かち。かち。かち。かち。…
 僕は手持ち無沙汰になって、ダイニングに戻るとソファに座った。
 ひとり残された家をひどく広く感じた。いつもは聞こえない時計の秒針の音を今日はなぜだかうるさく感じた。
 さっきの時間から出て行ったのなら、お昼ご飯は僕ひとりで取らなきゃいけないんだろうな。…然るべき時間になったら、何かを食べなくては。何を作ろうか…ああ、台所に立つのも億劫だ。ピザでも頼むか…。それすらも――何だかやる気が起こらない。昼になってもお腹が空かないようなら抜いてしまうのもいいかもしれない。
 …こうしてぼんやりしていても仕方がない。仕事に戻ろう。今日はここで仕事の続きをやるとするかな。

 そうして、自分の部屋に篭ってPCの前に座ってはみたものの…何時間もモニターの前で手が止まっている。
 指が…動かないな。どうしたのかな。入力しなければならない事は分かっている。何を打たねばならないのかも。何の論文を完成しなければならないのかも。
 でも、手が動かない。さっきから考えているのが全く別の事だから。

 晶乃は、今頃どうしてるかな…。
 きっと楽しんでいるんだろう。あんなににこにこしていたんだから。宗親くんもいい子だから、晶乃を飽きさせないように、あれこれとプランを練ってきているに違いない。そう思ったからこそ、僕も…今日、笑って晶乃を送り出せた筈なんだ。

 集中力が切れているのを覚えて、僕は溜め息をつくとベッドに転がりこんだ。
 どうやって、自分は息をしていただろう。どうやって今まで生きてこれた? これからどうやって生きていく?
 …もう何も分からない。段々透明になっていく自分自身。曖昧になっていく僕自身。
 …はじめから僕は存在すらしなかったのかもしれないけれど。

 他者の存在を認識出来ない僕にとって、晶乃は地球上においてただひとりの「僕以外の人間」だ。
 晶乃自身は僕のこういう考えを理解しきれていないのは分かっている。僕も訓練したいとは思っている、…この世に晶乃以外の人間もきちんと存在するのだと。頭では分かっているつもりなんだ。でも…。
 他者と僕とは非連続だ。彼らが何を思い、何を為したとしてもそれは僕とは無関係だ。逆に言えば、僕が彼らを見て何を感じ何を言ったとしても、それらは届かないと思っている。別世界…もっと言えば、別次元に彼等は存在しているとしか思えないから。
 映画の観るかのごとく。僕は彼らの住む世界をそうしたフィルター越しの世界だと感じている。彼らがどれだけ賑やかに騒いでも、暴れても、僕には何ら干渉出来ない。する必要も無い。僕が口出ししたところで彼らの世界に変化は無いから。彼等は口を揃えてそんな僕を「ぼーっとしている」と言うね。本当は違う。彼らに対して反応する事は、僕にとって無意味だからだ。映画を見て、その映画の中の人物に向かって愚痴る事にどれだけの意味があるのか。
 …晶乃は、僕にとって、そんな映画を一緒に観てくれるただひとりの人間なんだ。

 僕は晶乃を失ったらどうなるんだろう。
 今日だって、さっきみたいに晶乃が男の子とデートに行くっていうだけでこんなぼろ雑巾みたいになっているんだ…、大体想像は付くけれど。いっそこの世に未練が無くなってすっきりするのかもしれないね。僕は晶乃の幸せだけを願っているのだから。

 目を閉じて、何度も晶乃の眩しい笑顔を思い浮かべた。それでいい。それでいいんだ。だって晶乃が幸せじゃなきゃ僕は何も楽しくない。生きている意味もない。だからこれでいいんだ。これでみんな幸せなんだよ。
 ああ、でも、何でか心臓の奥の方が痛いのは、何でかな。苦しい。苦しいんだよ、晶乃。ひどく痛むんだ。

 …そうか。
 どうして今まで気付かなかったのか。
 これが「こころ」か。


 ここに「わたしがいる」ように、
 そこに「お兄ちゃんがいる」んだよ。

 わたしはね、もうずっと前から気付いていたよ。

 だから――…



 今でもあの時の晶乃の声が響くよ。
 晶乃の言っていた通りだね。こころはここにある。晶乃のこころも、僕のこころも、「ここ」に。

 どうしてだろうね。
「ここ」にこころがあると分かっても、何だかちっとも嬉しくないよ。

 こんな事なら、僕にこころなど無くとも構わない。
 構わないから、僕の元に、もう少しだけ留まってくれないか、僕の大好きな晶乃――。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございます。
チカちゃんルートでチョコを渡しに行く際、兄の気持ちを考えてしまったら泣けてきてしまって。
「お兄ちゃんが可哀想。だからもうやめてくれ! これではまるで拷問だ!!」と叫びました。
勿論チカちゃん本人は大好きなんですよ。それ以上に兄が好きなだけです。

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