このところ、聞こえてくる音がある。
じんじんと痺れるように耳の奥で騒ぐ、まるで耳鳴りのような。
耳鳴りというと騒音のようなそれと思われそうだが、そうではない。
どこか耳に心地よく、甘美な響きのそれ。不快ではない。
何の音なのか、正確なところは分からない。
アリオスは今日もその音に耳をそばだてている。
何が聴こえるというものでもない、だが聴こえない振りなどできるわけがなかった。
その音は、アンジェリークと出会ってから鳴るようになった音だった。
「…アリオス?」
その音に耳をそばだてるべく、目を閉じるとアンジェリークはそっと呼びかけてきた。
「どうか、したの」
少し黙っていてくれ。と呟いて、答えないでいた。
白いシーツ、白い枕に顔を埋めて、アリオスは黙ったまま。
隣で潜り込むアンジェリークが、まるでいないもののように。
音は声のようにも思われる。
男声よりも、女声の方が音域としては正しい。
アンジェリークの出す落ち着いた響きの声と、どこか似ているように思われる。
そしてこの音はアンジェリークの近くにいると、一層脳の中に響いてくる気がする。
この音が何なのか、結論は出ない。ただ分かるのは、これとアンジェリークは切っても切れない関係にあるが、アンジェリーク自身が発しているわけでは無さそうだという事くらいだ。
その音にじっくりと耳を傾けながら、ゆるゆるとアリオスは眠りに就いていく。
*
あなたを許す事は出来ないけど、あなたをそっと手放すよ。
どうか、幸せになってみせて。私以外の誰かと。
私とじゃなくてもちゃんと生きていけるんだって証明してみせて。
じゃないと私、前を向いて歩けない。
私がちゃんと空まで飛べるように、生きてみせて、レヴィアス…
*
目を覚ましたら、朝だった。
夢の中でも、あの声のようなエコーのような何かはずっと聞こえていた気がする。
「…?」
確かに聞いていた。だがその内容が全く思い出せない。何か重大なやり取りをしたような気もする。
それより、気付いた事がある。夢の中の声は、エリスによく似ていたのだ。
アンジェリークの声と似ていると思ったのはあながち間違いでもなかった。アンジェリークではなく、それはエリスの声だったのだ。
「アリオス? どうしたの?」
「いや…」
アリオスの微細な変化に気付いたのか、あれから一言も言わないでいたアンジェリークが口を開いた。
「エリスの、声が聞こえた気がした」
「エリスさんの?」
「クッ、そんな顔すんなよ。ただの気のせいだって」
「うん…エリスさん、何か言ってた?」
「いや。言ってたらしいがよく聞き取れなかった」
「ふーん?」
アンジェリークは疑い深げな目線でアリオスを見つめた。
「ホントだっての。ほら、もう起きようぜ」
アリオスはさっさとベッドを出て行ってしまう。
「あ、もう待ってよ!」
「待たねぇよ」
「アリオスの意地悪!」
*
ずっと前から、言わなきゃいけないと思っていたの。
でも私の勝手で、私の都合で、ずっとそれを押し留めていたの。
あなたの事は今も大好きよ。
でも。長く続く筈もないって事も、分かってた。
私は召使い、あなたは未来こそ約束されていないけれど立派な王子。
お互いの世界がね、遠すぎたのよ。
あなたといる今日は想像できたわ。あなたといる明日も。
だけどあなたといる未来は途方もなく深すぎて、私じゃ見えなかったの。
*
夜。
星の輝く冷たい夜空を、アリオスは何度も仰いだ。
そのタイミングを、待つ。隣にいるアンジェリークが寒そうに縮こまった。
「そろそろ寝るか」
「そうね。…この夜空はきれいでいつまでも眺めていたいけど、これ以上ここにいたら風邪引いちゃいそう」
「お前が風邪引いたら大迷惑だ。移すなよ」
「もうっ、頼まれたって移してやんない!」
「だったら、お前が風邪引いたらしばらくキスはお預けだな」
「何よっ、人をペットか何かと勘違いしてるんじゃない?! お預けなんて止めてよね」
「じゃあ、キス出来なくなってもいいんだな」
この一言は、効いたようだった。
それまでかっかしていたアンジェリークが、急にしゅんとする。
「…アリオスの意地悪」
といつもの調子のアンジェリークの降伏宣言。
好きな奴でなきゃ意地悪なんてしないのに、アンジェリークは本当に気付いているんだろうか?
この幸せが、いつまでも続いたらいい。無理だと分かっていても、そう望むばかりなのだ。
*
あなたの事を、ずっと見てきたわ。
あなたからは私の姿は確認できなかったみたいだけど。
私はずっとあなたの隣にいたのに。
その子を、選ぶのね。レヴィアス。
*
「聞いてくれないか、アンジェリーク」
「なあに」
心は、ひとつだけだった。
彼女に言わなければならない事はひとつだけだった。
これから自分たちの未来がどんな方向にいったとしても、この気持ちだけは誤魔化せないし、忘れる事も出来そうになかった。
ある程度。予測できる。この宇宙への侵略は失敗するだろう。そして自分はこの少女に止めを刺されるのだ。
望むところだった。愛した相手に殺されるのなら、いっそ本望だった。歪んだ考えだが、止めを刺す事で、直接手を下す事で、アンジェリークは永久にアリオスの事を忘れられなくなるだろう。
彼女が自分の事を愛しているかどうか、それは分からない。それでも、覚えていてさえくれれば良いのだ。
心は、アンジェリークを想う気持ちはひとつだけだった。
「…愛してるよ」
おしまい
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