耳鳴りと喪失


 このところ、聞こえてくる音がある。
 じんじんと痺れるように耳の奥で騒ぐ、まるで耳鳴りのような。
 耳鳴りというと騒音のようなそれと思われそうだが、そうではない。
 どこか耳に心地よく、甘美な響きのそれ。不快ではない。
 何の音なのか、正確なところは分からない。

 アリオスは今日もその音に耳をそばだてている。
 何が聴こえるというものでもない、だが聴こえない振りなどできるわけがなかった。
 その音は、アンジェリークと出会ってから鳴るようになった音だった。

「…アリオス?」
 その音に耳をそばだてるべく、目を閉じるとアンジェリークはそっと呼びかけてきた。
「どうか、したの」
 少し黙っていてくれ。と呟いて、答えないでいた。
 白いシーツ、白い枕に顔を埋めて、アリオスは黙ったまま。
 隣で潜り込むアンジェリークが、まるでいないもののように。

 音は声のようにも思われる。
 男声よりも、女声の方が音域としては正しい。
 アンジェリークの出す落ち着いた響きの声と、どこか似ているように思われる。
 そしてこの音はアンジェリークの近くにいると、一層脳の中に響いてくる気がする。
 この音が何なのか、結論は出ない。ただ分かるのは、これとアンジェリークは切っても切れない関係にあるが、アンジェリーク自身が発しているわけでは無さそうだという事くらいだ。

 その音にじっくりと耳を傾けながら、ゆるゆるとアリオスは眠りに就いていく。



 あなたを許す事は出来ないけど、あなたをそっと手放すよ。
 どうか、幸せになってみせて。私以外の誰かと。
 私とじゃなくてもちゃんと生きていけるんだって証明してみせて。
 じゃないと私、前を向いて歩けない。
 私がちゃんと空まで飛べるように、生きてみせて、レヴィアス…




 目を覚ましたら、朝だった。
 夢の中でも、あの声のようなエコーのような何かはずっと聞こえていた気がする。
「…?」
 確かに聞いていた。だがその内容が全く思い出せない。何か重大なやり取りをしたような気もする。
 それより、気付いた事がある。夢の中の声は、エリスによく似ていたのだ。
 アンジェリークの声と似ていると思ったのはあながち間違いでもなかった。アンジェリークではなく、それはエリスの声だったのだ。
「アリオス? どうしたの?」
「いや…」
 アリオスの微細な変化に気付いたのか、あれから一言も言わないでいたアンジェリークが口を開いた。
「エリスの、声が聞こえた気がした」
「エリスさんの?」
「クッ、そんな顔すんなよ。ただの気のせいだって」
「うん…エリスさん、何か言ってた?」
「いや。言ってたらしいがよく聞き取れなかった」
「ふーん?」
 アンジェリークは疑い深げな目線でアリオスを見つめた。
「ホントだっての。ほら、もう起きようぜ」
 アリオスはさっさとベッドを出て行ってしまう。
「あ、もう待ってよ!」
「待たねぇよ」
「アリオスの意地悪!」



 ずっと前から、言わなきゃいけないと思っていたの。
 でも私の勝手で、私の都合で、ずっとそれを押し留めていたの。
 あなたの事は今も大好きよ。
 でも。長く続く筈もないって事も、分かってた。
 私は召使い、あなたは未来こそ約束されていないけれど立派な王子。
 お互いの世界がね、遠すぎたのよ。
 あなたといる今日は想像できたわ。あなたといる明日も。
 だけどあなたといる未来は途方もなく深すぎて、私じゃ見えなかったの。




 夜。
 星の輝く冷たい夜空を、アリオスは何度も仰いだ。
 そのタイミングを、待つ。隣にいるアンジェリークが寒そうに縮こまった。
「そろそろ寝るか」
「そうね。…この夜空はきれいでいつまでも眺めていたいけど、これ以上ここにいたら風邪引いちゃいそう」
「お前が風邪引いたら大迷惑だ。移すなよ」
「もうっ、頼まれたって移してやんない!」
「だったら、お前が風邪引いたらしばらくキスはお預けだな」
「何よっ、人をペットか何かと勘違いしてるんじゃない?! お預けなんて止めてよね」
「じゃあ、キス出来なくなってもいいんだな」
 この一言は、効いたようだった。
 それまでかっかしていたアンジェリークが、急にしゅんとする。
「…アリオスの意地悪」
 といつもの調子のアンジェリークの降伏宣言。
 好きな奴でなきゃ意地悪なんてしないのに、アンジェリークは本当に気付いているんだろうか?
 この幸せが、いつまでも続いたらいい。無理だと分かっていても、そう望むばかりなのだ。



 あなたの事を、ずっと見てきたわ。
 あなたからは私の姿は確認できなかったみたいだけど。
 私はずっとあなたの隣にいたのに。

 その子を、選ぶのね。レヴィアス。




「聞いてくれないか、アンジェリーク」
「なあに」
 心は、ひとつだけだった。
 彼女に言わなければならない事はひとつだけだった。
 これから自分たちの未来がどんな方向にいったとしても、この気持ちだけは誤魔化せないし、忘れる事も出来そうになかった。
 ある程度。予測できる。この宇宙への侵略は失敗するだろう。そして自分はこの少女に止めを刺されるのだ。
望むところだった。愛した相手に殺されるのなら、いっそ本望だった。歪んだ考えだが、止めを刺す事で、直接手を下す事で、アンジェリークは永久にアリオスの事を忘れられなくなるだろう。
 彼女が自分の事を愛しているかどうか、それは分からない。それでも、覚えていてさえくれれば良いのだ。
心は、アンジェリークを想う気持ちはひとつだけだった。
「…愛してるよ」


おしまい


■あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございました。
ぎゃー! 暗くてどうも…。暗黒色の物語で…。
エリスの心理を深く考えるにつれ、こう思わずにはいられません。
アリコレが好きならなおさら避けては通れない問題です。
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