長い回廊を女王の執務室へ向かって歩いていく。
その途中で、アリオスは今まさに仕事が一段落ついたらしい聖獣の宇宙の女王――アンジェリーク・コレット女王陛下にばったりと出会った。アリオスの姿を認めて、アンジェリークの顔がぱっと華やいだ。その子供っぽい表情はそこらにいる女子高生のそれと変わらない。
「あっ! アリオス!」
「おい走るなよ、転ぶだろ」
アリオスの制止など聞く彼女ではない。そしていつも無鉄砲をやらかすのだ。
案の定、アリオスの言葉に聞く耳を持たないアンジェリークはこちらに向かって駆け出した。
…勿論、そうしてまでアリオスに近付きたいという彼女の気持ちは、けして悪くないのだが。
「大丈夫だもん! …きゃっ!」
「言わんこっちゃない…というか、どうしてお前は何にも無いところで転ぶかな」
ばたっ、と盛大に転ぶアンジェリーク。お決まりの台詞として、「ドジだな」「大理石の床で転ぶか普通?」「危なっかしすぎるんだよお前は」等、一通り馬鹿にしたところでアリオスは彼女に近付き、手を差し伸べた。
緩慢な動作でアンジェリークは顔を上げ、じっとアリオスを見つめた。透き通った青緑色の瞳。吸い込まれそうだ。アンジェリークはアリオスの差し出した手に一瞬躊躇う様子を見せたのち助けられ、立ち上がった。
アンジェリークはひどく申し訳なさそうな表情をしている。
落ち着きの無い派手な転倒を女王らしからぬ振る舞いだとは思うが、だからといってそこまで反省させるような事柄でもあるまい。仕方なく元気付けようとアリオスが口を開いた時、アンジェリークに思わぬ台詞で先制された。
「…あなたなのね?」
「は?」
「あなたの幸せを思えばこそ、あなたの前に出てくるつもりじゃなかった。…なのにどうしてかしら。会えて、確かに嬉しく感じている。…偶然よ。今、あなたに会えているのは。…嘘じゃないわ」
悪いところでも打ったか? と、瞬時に考えたのはそんな事だった。
そうではないらしい。
アンジェリークの揺らぐ眼差しは、彼女のその言動以上にアリオスを惑わせた。何処かアリオスを責めるような調子で、アンジェリークは唄うように続ける。
「そんなカタチを、取っているのね。…見違えたように感じるのは、その所為かしら。…随分明るくなったのね」
「明るくなったんじゃなく、お前が明るくさせたんだろ、無理矢理に」
「気になるのはそれだけじゃないわ」
微妙に噛み合わない会話。
どのように頭を打ったら、先程まで明るく元気よくはしゃいでいた彼女が、ここまで冷静になれるのだろう。加えて意味不明な発言を繰り返すのかも。
「あなたの名前も姿も、今取っているそれは本来のカタチではない。それでも『この子』のためにそのカタチを敢えて取る事に決めたのね。…何だか妬けるわ」
その『この子』が魂の奥底の自分自身だと言わんばかりに、アンジェリークは胸元を押さえた。どうしていいのか分からずに、アリオスはその場に立ち尽くした。
「だってあなたはそんなに融通の利く人じゃなかった。…昔なら、きっとそうはならなかったのに。…それはあなたがあの時よりも柔軟な思考を手に入れたから? それは『この子』に会えたから? …私ではなく、『この子』に」
「…アンジェリーク、」
「嘘よ。冗談。あなたを困らせるのは本意じゃない」
目の前に見えるアンジェリークの姿。
それはやけにいつもより冷めている。穏やかでぼんやりした視線の代わりに、今は理知的で冷めた視線をアリオスに送っている。――これは、誰だ? 少なくともいつものアンジェリーク・コレットではない。頭を打ったからといってここまで瞬時に性格が変わるものだろうか。
「確かに、私が『この子』を羨んでいる気持ちがあるのは本当よ。けれど…過ぎてしまった私の気持ちより、今この場所に足を付けて立っているあなたの気持ちの方が重要よ。だから…」
アンジェリークらしき女性は淡々と言葉を紡ぎ続ける。瞳に浮かぶのは懇願。
「どうか、幸せになって。今度こそ、間違えないように。…約束よ、レヴィアス」
アリオスは弾かれるように目を見開いた。
全身から血の気が引いていく。
「お前、まさか――」
さあ、どうなのかしら。そう言いたげにアンジェリークはふわりと一瞬微笑むと、静かに目を閉じその場に崩れ落ちた。慌ててアリオスが抱き止める。柔らかな体は、しばらくその場でアリオスに抱き止められるがままだったが、ふと彼女の目が開いて状態が一変した。
「きゃあああああッ、何これ何これ、何でこんな」
目を白黒させてアリオスの腕の中でもがくアンジェリーク。全く女王らしくない、威厳に欠けた振る舞いだ。
…間違いない。アンジェリーク・コレットだ。
「…お前がすっ転んだ、から、だろ」
「も、もう、いつまで触ってるのよ、もうッ!」
「ばぁか。いつも触ってやってるだろ、それと同じじゃないか」
「どさくさに紛れて変な事言わないでよ!」
日常が帰ってきた事を実感して、わけもなく落ち着くのを感じた。ふいに自分だけの最後の天使を愛しく感じて、思わず額に口付けしたら思い切り反抗されて胸板をぼこぼこと殴られた。そこは照れてくれるところではないのか。随分と意地っ張りな天使様だ。顔を真っ赤にして抗ってくれるのは、これはこれでかわいい。
「も、もうアリオスなんて知らないから!」
「お前が俺を見て犬っころみたいに走って来たんじゃないか…」
機嫌を損ねたアンジェリークが、アリオスの体をすり抜け回廊の向こうへと歩いていく。あれは駄目だな、当分はご機嫌斜めのようだ。人の目のありそうな場所でどさくさ紛れにセクハラ紛いの事を言ったのが悪かったらしい。しかし、アンジェリークがアンジェリークなのだと確認出来たのは良かった。そんな事を思いながら、アリオスはぼんやりとした速度で彼女を追い掛けた。
…約束よ、レヴィアス。
頭の中に響く声。今も尚鮮烈に。いつか聞いた声音。
アリオスは振り返ると、そこに彼らの姿を認めて微笑んだ。
「仕方ねえから約束してやるよ。お前のためにも。いや、それとも…もう、とっくの昔にお前の願いは叶っているのかもな?」
耳聡いアンジェリークが振り返りもせず尋ねて来る。
「アリオス、何か言ったー?」
「何にもだよ」
そうして、アンジェリークの後を追いアリオスは走り始めた。
振り向けばそこにいつだって、いつか自分が亡くした彼らの姿が見える。
そこには、過去に愛したあの女性の姿も――。
おしまい
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