1.Boy meets Girl


 夜の森の湖に、立ち尽くす。流れる滝に、思いを馳せた。静かな水音。緩やかに波を描く蛍の光。淡く、地上を遍く照らす月光。これらを全て、ひとりきりで眺めていた。傍らに人の気配を感じたような気もしたが、勿論気のせいである。誰もいはしない。ロザリアを始めとする聖地の面々は、アンジェリークが今日だけは自由に行動する事を許してくれている。以前は随分と揉めたものだが、もう誰も何も言わなくなった。どのみち今日だけは、机に向かっていたところで仕事にならない。
 だからアンジェリークは、朝からこの森の湖に出かけ一日中そこでぼんやりしているのだ。実際には、ただぼんやりしているわけでは無い。色々な事を思い出している。森の湖で起きた、たくさんの出来事を思い返している。青い髪の男性が、アンジェリークの脳裏であちらへ行ったりこちらへ行ったりしていた。
 この滝をその人と一緒に眺めたのは、一体どのくらい前の事だったか、だんだん思い出せなくなってきている。あんなに大事な思い出であった筈なのに、自分の掌の中から零れ落ちていくそれを、留めておく事が出来なかった。
 彼との思い出を、こうしてひとつひとつ失っていく。痛みだけはそのままに。
「…ルヴァ」
 呼びかける、その人は何処にもいない。

 元・地の守護聖ルヴァは既に現役を退いて久しい。
 恋人であり、そしてまた彼にとっての主君である女王・アンジェリークは彼との別れを拒み続けたが、こればかりはどうにもならなかった。彼は主星へと下った。詳しい事は何も聞いていないし、聞けるような気分でも無かったけれど、あとから噂に聞いたところでは砂の惑星に行ったらしかった。
 砂の惑星に戻って、一体そのあとどうしたのだろうか。誰も、そのあとを知らなかった。幸せになんてならなければ良いのに、なんてアンジェリークは意地悪く考えた。自分がいないのに、幸せになっているルヴァなど見たくなかった。自分が今幸せじゃないのと同じくらいに、彼も幸せじゃないのなら納得出来る。言葉通り引き裂かれた自分達が、これから一体どうなるのか想像も付かなかった。
 彼を秘密裏に匿う発想が出る程、冷静さをあの時保ったままでいたなら。きっとその計画は上手くいっていた。実際の自分ときたら泣きじゃくるばかりでまるで使い物にならなかったのだ。後悔はとめどなく、尽きない。ずっと聖地のどこかに隠れていれば良かったのに。ここに、いてくれたら良かったのに。
 ふと、月を見上げた。冷たく、そして過剰に大きい月は揺れる水面に光を差し出している。
 この世のものとも思えないこの光景を、あの人と眺められたらどんなにか幸せだっただろう。隣を見遣る。無論、誰もいない。それでもアンジェリークの目には、はっきりと写るのだ。微笑んで、こちらと月とを交互に眺める彼の姿が。
 幸せです、と仮初めの彼は言う。このような光景をあなたと見る事が出来て、と。私は世界一の幸せものです、と彼はアンジェリークの脳の中で告げる。
「私も幸せよ」
 つられるように、言葉を吐いた。一方的な言葉の羅列は静かに湖の中に吸い込まれていく。
「あなたの誕生日を、こうしてあなたと祝う事が出来て、本当に幸せだわ」

 今日は、7月12日。ルヴァの誕生日なのだった。

「誕生日プレゼント、今年も用意したのよ」
 アンジェリークは何も無い空間に語り掛けると、ポケットからプレゼントを取り出した。受取人の無い贈り物。誰も受け取らないと分かっていても、それでも用意せざるをえないのだ。
 ポケットから出たのは小さなピアスだった。そろそろ新しいのが欲しいと言っていたじゃない? とアンジェリークは問い掛ける。その話を聞いたのは、既に何年も前の話である。掠れる記憶の向こうに、今でもピアスを欲しがるルヴァの姿があるのだった。あなたのピアスなんて私以外誰も気にしないもの、私があげる事にしたの。嬉しいでしょ? と。
 答えは無い。掌の上に預けたピアスが受け取られる気配は一向に無い。
 もう何年もこうして繰り返されてきた一方的なやり取りに、既に限界を覚え始めているのにアンジェリークは気付いている。そういつまでも自分を誤魔化していられないのを。分かっている、もう二度と彼が戻ってこない事くらい。彼の誕生日を、二度と彼と一緒には祝ってあげられない事を、ちゃんと気が付いている。目を逸らしているわけじゃ、無い。
 それでも祈りたいのだ。彼が生まれてきてくれて良かったという事と、自分と出会ってくれた事に感謝したいのだ。二人の未来は二度とは交錯しないだろうけれど、それでもたくさんの「ありがとう」を伝えたいのだ。…ただ、感謝するべき対象がいないだけで。
 揺れる水面。写らない影。どうしてひとり分の影しか無いのだろう。隣には、いつだっていてくれてる筈なのに。どうして伸ばした手が何にも届かないのだろう。世界を統べる女王なのに、彼をどうする事も出来なかった。自分は無力だ。思い知らされる。女王になっても、何も変わりはしなかった。後悔は堂々巡りで、いつも終わらない。あの人が遠のいていくのを、手をこまねいて見ている事しか出来なかった。
 普段は意識しないけれど、本当はいつもつらくて仕方なかった。あの別れから何年も経っているのに、あのつらさから抜け出せたとは到底思えなかった。後悔と痛みだけが強くなっていく。周りもそれに気が付いているからこそ、今日だけは解放してくれているのかもしれない。
「もう、終わりにしたいの」
 ふいに、ぽつりと零れた呟きに、アンジェリークは戦慄した。今、自分は何と言ったのだろう? 全てを諦める、と宣言したのか? 言葉を出した後に、その意味をゆるゆると考え出していく。苦しいから。つらいから。このままでは、自分が救われないから。自分は死ぬまで孤独でいい、だけどこの後悔から遠のきたいのだ。
 最後の、贈り物。そんな事を思った。きっと彼は、どこかの世界で受け取って、喜んでくれる。その笑顔が見られないのが残念ではあるけれど。今でも、好きだと思う気持ちに変わりは無い。それだけは、過ぎていく年月の中で本当だった。あの人を想わない時なんて無かった。だから、終わりにするのだ。あの人を想ったまま、終わりにするのだ。その結末は、別れるよりも余程すっきりしているようにアンジェリークは思えた。
「さよならに、しましょ」
 立ち上がり、右手に乗ったピアスをぎゅっと握った。金属特有の冷たさに、気が遠くなる。思いついた事を、実践しようと思い立つ。ピアスを、湖の中に投げ込む。ピアスは冷たい水の下に、緩やかに沈んでいくさまを想像した。それと同じように、自分は自分の気持ちを沈めていくのだ。心臓の一番深い所に、もう後悔を繰り返さないように。
 アンジェリークはもう一度だけぎゅっとピアスを握り締めると、決意を新たにして振りかぶり投げ―――かけた。大きく振りかぶった所で、右腕ごと掴まれる。その熱さに震えた。いつの間に。一体誰が。ロザリアかとも思ったが彼女なら今更こんな所には来ないだろうし、アンジェリークの腕を軽々と掴むその腕は明らかに男性のものだった。
 慌てて振り返ったところに見えたのは、眼前でひらりと揺れたターバンだった。
 言葉が出ない。しばらくそうして呆けていた。どうしてここに、と言えたら良かったのに、亡霊のように思えて質問するのが躊躇われた。風にそよぐ青い髪。何度夢想しかた分からないその人…、ルヴァがそこにいた。月光に照らされた彼の顔面は青いように見えて、余計に亡霊を連想させた。青い髪の亡霊は、ゆっくりと腕を放したあとこう告げた。
「駄目ですよ、私への贈り物を捨てちゃ。あー、さっきみたいな事ばっかりやっちゃうと環境破壊が聖地でも進んでしまう事になるのですねー。それは歓迎しない事態ですね」
 ぽかん…、とただ彼の事を見つめていた。亡霊じゃ、無い。ルヴァ特有のぼんやりとした喋り方。そのままだった。何の変化も無い。…話し方に関してだけ言えば。
 姿は、何年か分は年を取っているといった風情だった。けれどその柔和な顔つきは何年経ってもそのままで。時間の流れを否応なしに感じた。自分の姿は変わらないのに、彼だけは確実に年を取っているのだ。
「…ル…ヴァ、」
「はい。私ですよー。アンジェ」
 こみ上げるものを抑える事が出来ずに、アンジェリークはルヴァにしがみ付いた。知っている。この体温を、痛いくらいに知っている。この優しい匂いを知っている。随分遠くに離れていたけれど、忘れた事など無かった。
「どうして。何で」
 ここに、いられるの。最後まで放てない言葉を、それでもルヴァは確実に理解して回答する。回された腕は何年ぶりの温かさだっただろうか。
「随分前から、嘆願書を提出してたんですよ。…私を、聖地にいさせて下さいって」
「誰に」
「色んな人に。説得して回りましたよー。どんな手段でもいいから、私をアンジェの傍にいさせて下さいって」
 たったひとりで、それでも彼はどうにかして聖地に戻れないかと手段を講じていたのだ。何もしないでいたアンジェリークは自分をひどく恥じた。自分がしていた事と言えば、ただ後悔を繰り返してただけではないのか。そうだ、と今更に思いつくのだ。するべき事は諦める事なんかじゃなく、手段を考える事だった。彼は元の場所に戻るために彼自分の時間を費やしてくれたのに。
「それで、許可が下りたのね」
「はい。今度はものすごーく下々の者として聖地に上ります。夜中にここに来る事なんて、許されないでしょうねー」
 女王と、小間使いとして。二人の関係は、より一層難しいものと、或いはなったのかもしれない。それでも、傍にいられるだけずっとましだった。離れている事を悲しまなくてもよくなったのだ。こんなに近くに熱を感じられるのに、どうして不満なんてあるだろう?
「どうしてここが分かったの?」
「きっとあなたはここにいるだろうと思いましてねー」
「エスパーみたい」
「本当にそうかもしれませんよ」
 そんなわけない、とくつくつ笑う。彼も、アンジェリークの頭上で微笑んだらしかった。
 彼に言いたい事は、たくさんあった。自分が手を尽くしていたならもっと早くにここに来れただろう、と言いたかったけれど、それは飲み込む。きっとそんな謝罪は彼は求めてない。素早い頭の回転も、きっと彼は自分にも求めてない。彼が欲しいのは、ただ無償の愛だけだと思うから。それを分かっているから、アンジェリークは微笑んでみせるのだった。
「また会えて、すごく嬉しい。ありがとう…、」
 右手に収めたままのピアスを差し出す。今日は、彼の誕生日だから。
「お誕生日、おめでとう。会えなかった分のお祝い、全部全部詰めたから」
 彼の微笑み。いつもの、にっこりした邪気の無い笑顔。
「ピアスが欲しいって言ったの、覚えててくれたんですね」
 アンジェリークの望み通りピアスをつけたルヴァは、本当に数年分の空きがあるとは思えない若々しさを保っているのだった。女性に直視される事に相変わらず慣れない彼は随分と照れながら、もごもごと照れ隠しにこんな事を言ってくるのだった。
「こういうの、何て言うんでしたっけ? 映画のワンシーンで、よく見ますよね」
「…Boy meets Girlってヤツ?」
「ああ、それ、それですよー」
「もぉ、そういう年じゃないでしょ…」
 下手な照れ隠しに、思わず笑みが零れた。

 少女と少年、と言うのには、二人は些か年を取り過ぎていたけれど。
 この二人は、長い別れの果てにようやく再会を果たせたのだった。
 そうして。二人の物語は、ここから始まる。


おしまい


■あとがき
ルヴァ様お誕生日おめでとう! 愛 し て る !
誕生日記念創作ですが、ちょっと違う切り口から書いてみました。
題名の付け方が無理矢理な気がしなくも無いが、気付かない振り。
→お題へ
→home