10.抱き締めたい


 火龍族の里にて。
 蜜柑の木の下で、アンジェリークとジェイドはゆったりと休んでいた。
 地面の土で汚れるのも構わず座り込んでいる二人。さりげなく繋がれている手。そこから伝わる熱が嬉しくて、アンジェリークははにかんだ。そっと隣を見ると、そこにはあのいつもの穏やかな微笑があった。
 午後2時。太陽の下に出るのには、まだ少しだけ日差しのきつさがつらくて。
 垂れ目のココア色の瞳が、じっとこちらを見つめ返すのが嬉しいやら照れ臭いやらで、アンジェリークはジェイドからそっと手を離すと、誤魔化すようにうーんと伸びをした。深呼吸の度に鼻をくすぐる甘酸っぱい蜜柑の匂い。ふいにひとつ食べたくなって、立ち上がり手を伸ばした。
 蜜柑はアンジェリークの細くすらりとした白い手には、あと数ミリ届かない。
 何度も何度も、諦めずに手を伸ばそうとするアンジェリークに、ジェイドはくすりと忍び笑いを漏らした。
「アンジェの身長じゃ、届かないよ」
「そんな事ありません。必ず取ってみせます」
 あともうちょっとで届きそうなだけに、諦めきれなかった。つま先立ちのまま、よろよろとしながら必死に手を伸ばす。身長が低いから、と遠まわしに言われたようで、それも気に入らなかった。実はアンジェリークの身長が低いわけではなく、ジェイドが高すぎるだけなのだが。
「危ないよ、アンジェ」
「危なくなんて…、きゃッ?!」
 つる、と足元が滑った。この大きな蜜柑の木は、その下に大きな木陰を作っていた。つまり、その木陰は常に日陰なのである。たっぷりと水分を含んだ土は、かなり滑りやすくなっていた。
 滑る! と目を瞑ったアンジェリークだったが、しかしいつまで経っても衝撃は訪れなかった。そろそろと目を開ける。何だか温かいのは、何だか温もりを感じるのは、どうしてだろうと感じながら。
「…ほら、だから言ったじゃない。危ないよって」
 開けた視界には、彼の腕が見えた。低いようで高いような、特徴的な彼の声は背後から聞こえていた。自分の腰に回されている腕。背中やお腹に伝わる温かさ。
 言葉にも出せないまま、アンジェリークは事態を理解するのだった。

自分はジェイドに後ろから抱かれている。

「…ッ!」
 恥ずかしさに硬直した。一方で、後ろでゆったりとアンジェリークを包んでいるジェイドはやたらと楽しそうだった。彼は自分の顎をアンジェリークの頭のてっぺんに乗っけて、おどけてみせた。
「アンジェってあったかいね。可愛いよね」
 最後の一文は、今の状態とは関係が無い。などと脳の冷静な部分でそう判断したあと。アンジェリークは真っ赤になって抵抗し始めた。
「や…っ、離して下さい…っ」
 彼の腕の中でじたばたともがくが、ゆったりと抱いているようでなかなか外れない。アンジェリークは恥ずかしさに沸騰しそうだった。
「折角のチャンスなのに。もう少しだけ、こうさせてよ」
「そんなの、いつだって出来るじゃないですか…っ」
 確かに、アンジェリークとジェイドは自他共に認める恋人同士なのだから、チャンスも云々も二人には既に関係が無い。ジェイドの言う事は、アンジェリークには時々分からない。
「だって、少しでも長くこうしていたいから」
 子供みたいな事を言って、ジェイドは「ぎゅーっ」と擬音を口にした。そしてぎゅーっと抱き締められる。決して苦しくはない程度の、アンジェを思いやっての抱擁。子供みたいな言い方に、しかしつられて微笑む程の余裕が、今のアンジェリークには無い。
「いつだって出来るからって、結局いつもはしてないから。アンジェは知らないだろうけど、俺はいつだってぎゅってしたいんだよ」
 声だけで、表情は読み取れないけれど。分かる。これ以上はないくらいにこにこしているのが。上機嫌なのが。そんなのは知らなかったです、とたどたどしくアンジェリークは言った。
 きっと、今の自分は耳まで赤くなっているのだろう。色素の薄い自分の体が、今は憎かった。自分はこんなに真っ赤になって照れているのに、彼ときたら嬉しがるばかりで平然としているのだ。
 「うー」と言葉にならない抵抗を続けながらアンジェリークは何とか彼の腕から逃げ出そうとしていた。しかるべきタイミングの時ならこんなに照れたり逃げたりしないけれど、今日のこれはハプニングによってだから、アンジェリークにとってはあまり歓迎できない。それに人に見られるかもしれないという心配もある。火龍族の人たちには、付き合い出した初日にジェイドが喜びのあまり村人全員に笑顔で報告したため村中に知れ渡っている。とはいえ、こんな場面を見られたらいい噂の種になる事間違いなしだ。それは是非とも避けたかった。
「みんなに見られたら…」
 そっと呟くと、ジェイドは「うん?」と囁いた。
「噂になるのが嫌なの?」
「うん…」
 小さな、それでも確かな肯定を口にすると、なぜかジェイドは朗らかに笑うのだった。
「だったら、噂にしたくても出来ないくらい熱々なところ、見せつければいいんだね」
「え…っ」
 ぱっ、と彼の腕が解かれて。温かさが消えていくと思った瞬間にはジェイドのココア色の瞳が眼前に見えた。自分の顎に、ジェイドの手がかかって。あれ、体が逆転してる、と思う頃には。
 口元を、何か温いものが掠めた。かっ、と一気に体中が熱くなる。それが何だか分かって、猛烈に照れた。
 彼とこういう事をするのは、勿論初めてじゃない。だけど、慣れる程にはまだ回数を重ねてないのも本当で。慣れない感触にもぞもぞとした恥ずかしさを、アンジェリークは覚えた。
「ねえ、…これならいいでしょ。もう誰も近寄って来られないから。ね?」
 アンジェリークは既に、何も答えられない。目を逸らすと、ジェイドはそれを追いかけるように目線を合わせた。
「ねえ、だから、もうちょっとだけぎゅってしてていい?」

 君を、ずっとずっと抱き締めてたいんだ。

 耳元で囁かされる声に、アンジェリークが完全に降伏するのは、あと数秒。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
本当は暗いものを書くつもりでした。ジェイドが暴走して気が付いたら甘くなってました。
ちゅーか、冷静になって読んでみると何だこの猛烈に痒い話は。
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