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16.願い事


 雨。
 いつ降り始めていたのか、いつ止むのか。誰にも分からない。
 暗雲の下、途絶える事無く降り続く。太陽は、もう何日も出ていないように思えた。

 傘の下。
 アンジェリークとジェイドは言葉も無く立ち竦んでいた。
 動けば、良かったのに。二人とも動けずにいた。
 身じろぎもせず遠くから一点を凝視し続けていた。

 黒い棺。見えないけれど、誰かを運んでいる。確かな重み。支える人たちの遣る瀬無い表情。それら全てを眼球に焼き付けるように、彼等はただ見入っていた。
 アンジェリークがぽつり、か細い声で状況を判断した。
「…亡くなられたのね」
 棺を追いかけるように、飛び出る女性。涙に暮れている。誰もかれもが、彼女を腫れ物に触るかのように扱っているのが見て取れた。
 降り頻る雨の中、女性は傘も持たずずぶ濡れだったが、全く構わない様子だった。…天気の事など既に認識出来なくなっているのかもしれない。
「…もう、行こう、アンジェ」
 ジェイドは目を逸らすと言い難そうに切り出した。これ以上この場にいてはただでさえ悪天候続きで気が滅入っているのに、さらに気が滅入りそうだった。
「そうね…、ごめんなさい、縁起でも無いところで足を止めたりして」
「いや…、いいんだ」
 二人はその場に背を向けると、また歩き出した。

 女性が、おそらくは今棺に眠っているのであろう人物の名を呼ぶのが聞こえた。



 アンジェリークとジェイド。
 二人旅を始めてからもう数年が経った。
 親も無く、親戚も無い二人には、故郷はあれどそれは永住する場所ではなかった。
 ただひたすら、長い果ての先に二人で暮らせる世界を探して彼等は旅を続けている。

 そんな折だった。
 ある日泊まった小さな町で、葬式があると聞いた。縁起も悪い上に、自分達がいるのは良くないと退散しかけたのだが、間に合わなかった。
 ジェイドとアンジェリークは、雨の中黒い棺が運ばれていくのを見た。
 言葉も無く、ただじっと見つめている事しか出来なかった。
 人々は陰鬱で、天気は暗黒だった。罪人ではないのに、そこに有る全てのものが罪であるとジェイドには不思議に感じられた。
 出来れば見たくは無かった。
 棺に駆け寄った女性、あれはきっと棺の中の人物の妻だったのだ。
 生涯の伴侶を失った彼女は、これから一体どうなっていくのであろう。ジェイドには想像もつかない。これから未来永劫ひとりきりで。見たところ、まだ若かった。その辛さを思って、胸が痛んだ。友達や、優しい誰かが彼女のためにあれこれ手を尽くしてくれるのは間違いない。しかし、根本的な部分で彼女が孤独になってしまったのには変わりが無い。
 アンジェリークの事を連想した。おそらくは、…考えたくない事だが、置いていかれるのは自分だ。ひとりきりになる。いつかは。あの女性と、同じ目に遭うのだ。
 そうしたら、自分はその時ちゃんと耐えていられるだろうか。あの女性のように正気を失ってしまえたら楽なのに、とは思うけれど。
 それもまた、機械の身には許されない。どれだけの時間を生きたら、人間のように眠れるようになるのか。それも分からない。どれだけ苦しんでも、幾多の試練を越えても人間にはなれない。人間と同じ心を持って生きても、だからこそ人間では無い事を思い知らされる。
 青い傘の下、アンジェリークがそっとジェイドに目線を送った。気が付いている。ジェイドが何を考えているのか。同情とも感傷ともつかない表情。その意味は、ジェイドには読み取れない。
「…何を考えているんですか」
 葬式の場から離れる事数分後、アンジェリークはそんな風に問いかけてきた。
「…あの人の事を。考えていたよ。可哀相だったね」
 考えていたのはそれだけではない。正確には、あの未亡人の事を考えるとともに自分の事、そしてアンジェリークの未来に思いを馳せていたのだ。
 先に死なれるのは辛いだろう。体験した事があるからこそ、その痛みを知っている筈だった。ジェイドも、アンジェリークも。言葉に出来ないくらいの痛さを。
 雨は降り続けている。あの不運な出来事とかち合ったのは、むしろ必然だと言えた。
 いつかは考えなければいけない未来に、初めて自分達は目を向けたのだ。残されたら、どうなってしまうのか。まだそれまでにはかなりの時間がある。だからといって覚悟をしておかなくとも良いという話にはならない。
「人間に、なれたら良いのに」
 ぽつり、とジェイドが洩らした声にアンジェリークは身を震わせた。濡れた前髪の向こうで、睨むような視線のアンジェリークを見つけた。
「言わないで下さい、…そんな事」
 怒っている。図星だから怒っているのだ。今更どうしようも無い事について、いつまでもジェイドがくどく言い募るから、だから彼女は機嫌を損ねるのだ。
 人間になりたいと思うのは、唯一にして最大の、ジェイドの願い。
 人間なら、例えあの葬儀のようにひとりきりにされても、遅くとも数十年単位で川の向こうで再会する事が出来る。ジェイドにとってみれば、それはたかが数十年単位に過ぎない。
 人形であるジェイドは、このままいけば少なくとも数百年は稼動するだろう、と彼は目算した。いつまで経ってもこの指を、この足を動かし続けなければいけないのだ。
 喜びは苦痛に。陽気さが陰気さになるのにはそれほどの時間を要しない。アンジェリークを失ったら精神的に生きていかれない事くらい容易に理解出来る。
「…ごめん」
 こんな陰鬱な考えを、アンジェリークの隣でするべきでは無かった。
 望みはただひとつだけれど、それは彼女の前でさえ口にする事は控えた方が良いのだ。彼女とて、残されるジェイドの事を案じる日もあるだろうから。
「もう、謝らないで。…行きましょう」
 青い傘の中から、白い腕と指が覗いて。ぎゅ、とジェイドの服の端を掴んでいた。
 微かに感じるアンジェリークの体温。ひどく温くて、なぜだかジェイドは涙が出そうになるのを感じた。あと何度、この体温を感じられるだろう。人は言うのだ、「ずっと一緒にいよう」と。恋人達はそうして約束を交わすのだ。
 「ずっと」なんて言うけれど、「ずっと」なんて有限なのだ。
 ずっと、出来る事ならずっとアンジェリークの体温を感じていたかった。それは有限だ。いつかは仕舞いの日がやってくる。それがいつかはジェイドにも分からないけれど。
 腕に感じるアンジェリークの気配を、何度も確かめた。雨に掻き消えてしまわないように。
 その時にきちんと、細部まで覚えているために。脳裏にその記憶を留めさせる。
「君がおばあちゃんになるのと同じ速度で、俺もおじいちゃんになれたらいいのに」
 望みは。願いはひとつだけ。

 人間になりたい。

 あとはそれさえあれば、自分達は真に幸せになれるのだ。
 自分達に足りないのはただその一点だけ。それだけが染みのように目立つ。
「もう…言わないで…それ以上は…!」
 アンジェリークの白い腕が微かに震えた。
 寒さのためではない、恐怖のためだった。激しく首を振ってジェイドの話を遮ると、彼の胸の中に飛び込んだ。雨に濡れて冷たくなった体。ジェイドは自分も傘を放ると、アンジェリークを強く抱き締めた。
 アンジェリークの放った傘。その青さが痛かった。
「君も、気付いてるんだね? 俺達は幸せになれても、それと同じくらい苦しいって」
「いいの、それでもいいの…!」
 覚悟の上だった。はじめから。
 辛いのなんて、知っていた筈だった。
 今は、冷たいアンジェリークの体をジェイドが抱き締めている。いつか、その逆をする日が来る。それを知っている。
 知っていて、それでもなお共にいる事を、アンジェリークは望んでくれたのだ。
「ずっと、一緒にいて下さい。ジェイドさん」
 「ずっと」なんて有限だ。どこかでお仕舞いになる。
 だからこそ、今この瞬間がずっと続くように、ジェイドには感じられた。
 アンジェリークの温い体を温めるため、ジェイドはただ彼女をきつく抱き締めるのだった。

「…、ああ、ずっと一緒だ」


おしまい


■あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございました。
毎日曇り空ばかり眺めていたら気付いたらこんなのを書いていました。
本当は、ジェイアンには青空がよく似合うと思うのですが。
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