「……アリオス、こんにちは」
木曜日、昼。
太陽が高く昇って一番暖かい時間。
約束の地にて。アンジェリークはアリオスの元にいた。
「お前か」
「うん。来ちゃった」
彼は記憶を持たない。
彼の元へ通うようになって随分経つが、今時点で彼が思い出せたのは自分の名前と、自分の身の回りのごく少ない情報のみであった。
例えば、そう、……彼の誕生日であるとか。
「今日、アリオスの誕生日、なんでしょ」
「ああ。お前には、いつか言ったかもな」
「プレゼント、持って来たよ」
「ああ?」
「はい」
言って、小さな包みを差し出した。
青い紙に包まれたそれをそうっと受け取って、アリオスはぐしゃぐしゃと開けた。
「……オカリナ?」
「そう。吹いてみて。いい音、するから」
彼とはあまりに似合わない、それ。
それの持つ素朴なイメージとは、似ても似つかない。
アリオスの鋭い視線をまともに受ける。
「何でだ。俺にオカリナ……ヘンだろ。イメージ違いすぎる、とか考えなかったのか?」
「ちょっとぉ。先に言う事があるでしょ」
「……。ああ、まぁ……ありがとな」
アリオスは分からないのだろうか。
記憶を失うまでは、オカリナの音色が好きだった事を。
どこでその記憶さえ失ったのだろう。
好きなものが分からなくなるとは、一体どんな気持ちがするものなのだろう。
「前にも1回あげたのに。あれどこで失くしたの?」
「……俺、これもらうの初めてだった気がするけどな。違ったか?」
覚えては、いないのだ。
「ううん。私の気のせいだったみたい」
あの常夏の街で。オカリナを手渡した事。
あの雪の街で。一緒に雪を眺めた事。
あの紅葉の街で。手紙を届けた事。
何一つ、彼の記憶の中には。
そしてそんな具体的な思い出ではなく、もっと大事なアンジェリークの心さえ。
彼は持たないのだ。
アンジェリークがアリオスを愛していた、アリオスもまたアンジェリークを愛していた、そのたった一つの真実でさえ。
でも、と思う。
悲しくないと言ったら嘘になるけれど。
「アリオス、大事にしてね」
「受け取ったんだから、一応大事にしてやるよ」
「ありがとう」
私達はここからやり直せる。と思った。
アリオスがオカリナを受け取った瞬間に、それが見えた。
私の事が分からなくても。
きっと、前に好きだったものならば、もう一度彼は好きになるだろう。
そうやって今は信じるだけ。
彼が自分を忘れても、自分は愛し続けるだろうというただ一つだけの真実を。
おしまい
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