.25.ためらわない、迷わない


 目を閉じて、目を開ける、そのひと時で川を越えて。
 気が付いた時には、そこは宇治川だった。
「…っ」
 右手に強く握っていた白龍の逆鱗を、そっと放す。壊れそうな程に薄いそれは、望美の手を離れてなお首元にぶら下がる。
「来れた…もう一度、この世界に」
 呟く。逆鱗を手放したあとも右の拳がぶるぶると震え続けていたのは、寒さのためばかりではない。これから起こるであろう運命をその身で変える、その重さに震えが止まらない。
 眼前に在るこの宇治川は、望美のいた世界の宇治川ではない。京の宇治川だ。なおかつ、二度目の京の宇治川。反射的に流れ落ちそうになる涙を堪えて、望美はその場に踏みとどまった。
 まだ、何も始まってない。何も終わってない!
 福原で源氏勢を守るためにひとり危険な勝負に出た、リズヴァーン。炎上する京で行方知れずになった、八葉。燃える屋敷の中で逆鱗を託して消えた、白龍。次々と脳裏に浮かぶのは、大好きな人たち。最後に現れた虚像は、とりわけ望美の心を痛くさせた。
 白龍はその逆鱗を用いて元の世界に帰れと懇願した。ここで元の世界に戻らず、再び京に降り立つ事は白龍の意思とは反してしまう事も、了解した上でここに来た。「白龍の神子」が危険な地に降りる事を白龍が望むとは思えない。けれど。
 既に、選択した事だ。
 自分だけが安全な場所にいるのなんて、もう耐えられない。それに、今度は変える力がある。自分の持つあらゆる知識を総動員して、これから起こる未来を変える。源氏の完全な勝利が欲しい、などと贅沢な願いは言わない。欲しいのは大好きな人の生存、ただそのひとつきり。
 そうして、白龍に託された逆鱗により、京の歴史をやり直す決意を固めた望美が最初に降り立ったのがこの宇治川だった。そこで、はっと望美は息を呑み辺りを見渡した。
 あの歴史と全く同じものであるならば、この先に起こる事は。
「いけない…!」
 振り返ったその向こうに、梶原朔と、まだ小さい白龍が確認出来た。二人とも怨霊に囲まれており、身動きが取れない状態になっている。二人は、端的に言えば絶体絶命だった。
 それ以上の事を考えるより先に望美は走り始めた。手に持っている剣。これで自分は、戦える。彼らを、守る事が出来る。
 今度こそ。
「あああああぁぁッ!」
 わけの分からない叫び声を上げながら、怨霊に切りかかる。ねちゃり、という怨霊を切った時特有の粘着質な音がして、剣の切っ先は怨霊の体にめり込む。その不快な音は聞こえない振りをして、望美はそのまま封印の言葉を唱えた。
「巡れ、天の声! 響け、地の声! …かのものを封ぜよ!」
 しゅっと光球が出でて、怨霊がそれの中に封印される。その作業を繰り返し、その場にいた全ての怨霊を封印したあと、その場で深く息をつく。知らない間に、怨霊と戦う事にも封印する事にも慣れっこになっている。手順に迷いが無くなっている。この世界にやってきたばかりの頃は、剣を振るう事さえやっとの状態であったのに。口の端に、苦笑が漏れた。この程度では息さえ上げない程強くなってしまった。
 と、おずおずと朔と白龍が近付いてきた。
「あなた、とても強いのね…?」
「まあね。白龍の神子、だから」
 朔は驚いたように目を見開いた。これとは逆の反応をしたのが、白龍だ。頬を紅潮させて「白龍の神子」の到来を喜んだ。
「私は、あなたをずっと待ってたよ、神子」
 待っていた。たどたどしくも、しかし情感の篭ったその言葉に、じわり、と涙が浮かんだ。
 私だって探していた。ずっと。ずっと。白龍を。時空を越えてここまで。
 白龍の無事な姿を。
 望美は白龍に歩み寄ると、膝を折って顔を近づけた。突付きたくなるようなぷっくりした頬が可愛らしい。喉についている逆鱗が、どうしてだかひどく痛々しく思えた。
「やっと、また、会えたね、白龍」
「…?」
 白龍は分からない、といったふうに小首を傾げた。
 望美からすれば、あの炎の中で白龍から「白龍の逆鱗」を受け取って以来だ。フラッシュバックするように、望美の頭の中に表れるのは炎上する京邸。向かい合う白龍と望美。
 彼の最期の言葉。押し殺した響き。

 神子、生きて――

「…っ」
 衝動的に、白龍の体をぎゅっと抱き締めてしまう。子供の体らしく、体温が高いのが否がおうにも彼が生きている事を確認させる。
「もう、失わせないから…!」
 彼は生きている。この世界では、まだ。零れる涙を堪えきれなかった。逆鱗を喉から剥がしてしまった時の彼の表情が、忘れられない。文字通り、白龍は望美を助けるために自らの命を差し出したのだ。
「…神子? どうかしたの?」
「何でもない、だけど」
 嗚咽。それに気付いたのか、白龍はぽんぽんと望美の背中を優しく撫でた。それが嬉しくて、また泣けてきてしまう。
「泣かないで、私が一緒にいるから」
 二度とは同じ轍を踏まない。絶対に運命を変えてみせる。

 この人を助けたい。

 立ち止まっている場合ではなかった。自分には、為すべき事がある。
 望美は立ち上がると、手の甲で乱暴に目元を拭った。もう、泣いたりしない。歴史が修正されて、白龍の生き残る未来が完全に開けるまでは。
「行こう、白龍…、朔。この先に、八葉がいる」
 余ったもう一方の手を、白龍に差し出した。繋いでくるその迷いの無い純真さに微笑みを漏らしながら、望美はひとつの決意を胸にようやく歩き始めた。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
白望萌え。白望初のシリアスです。
2周目で私が思った事を、そのまま形にしてみました。
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