52.なんでもない日常 |
オリヴィエの守護聖退任の日。 オリヴィエは私室でトランクに荷物を詰め込んでいた。トランクの中の空きは既に多くは無かったが、それでも元々の荷物がこれきりなのを考えれば随分少ないといえた。要らないものは先日まとめて処分してしまったからだ。処分でなく、人に押し付けてしまう事も考えたが、人の心の中に自分が残る事、それが急に煩わしくなってやめた。柄でもない。かといってゴミを持ち帰るわけにもいかず、結局全て捨てた。これから守護聖でない自分は各地を放浪する旅人になるのだ。荷物があればそれだけ移動がしづらくなるだけだ。全てを捨てる事。それはオリヴィエにとって何より重要な最後の仕事だった。 旅人になろうと思ったのは、帰るべき故郷を持たないから。実際には、勿論無いわけではない。しかしあの場所に帰って隠居する自分など想像すら出来なかった。誰も自分を知る者はいない、それでもあの雪の世界はきっと自分を拒絶するだろう。そして自分もまた、あの場所が生まれた場所ではあっても骨を埋める場所ではないと確信している。 何処とも付かない空の下で自由気ままに、鳥のように。好きな時に好きな場所に行き、誰の干渉も受けずに生きる。…それは守護聖になってからいつしか抱いてきた願いではなかっただろうか。元々縛られるのは趣味ではなかったのだ。守護聖の任が終わる、その事実が知らされた時にオリヴィエが感じたのは紛れも無い安堵だった。聖地で出会ったたくさんの人間との別れを意識したのは、それから随分経ってからだった。そんな自分を薄情だと詰りつつも、それこそが自分なのだと改めてオリヴィエは意識したものだった。 「…オリヴィエ、」 無心に荷物を詰め続けるオリヴィエの背後に、躊躇いがちに声がかけられた。声の主は256代女王アンジェリーク・リモージュだ。女王となって幾星霜、それでも彼女の持つ少女性、またその声の幼さは変わらない。 「…来たんだ、」 問い掛けのような呼びかけに、どう答えていいのか分からず。オリヴィエは溜め息とともに振り返りもせずその事実を吐き出した。そう、アンジェリークはやってきた。もうまもなく出立しなければならないオリヴィエの元に。 今更やってきて、何の用なのだろう。オリヴィエはそう考える。引き留めでもするつもりか。それとも最後の別れの言葉でも口にするために? オリヴィエにはアンジェリークの目的が見えない。また、自分が彼女にどうしてやりたいのかもオリヴィエには分からなかった。泣き叫んで別れを惜しみたいのか、さらりと流してさりげなく遠くなっていきたいのか、自分にはどちらも不似合いに思えた。 空の机。いつもは清潔ながらも物で溢れ返っていたところを、このようにまっさらな机を見るのはそれこそ守護聖としてここにやってきたその初日くらいなものだ。あの日に立ち返る、けれど戻らないものばかりを手に入れて。光の差し込む、その空の机の上に鞄を置いた。もう一度だけ中味を確認する。忘れ物が無いかどうか、…二度とここには戻って来られないから。それともその行為も形だけのものなのかもしれない。単に自分の背中を食い入るように眺めるアンジェリークの視線を認めたくはないから。どんなふうに彼女を視界に入れたら良いのか、それが分からないから。 いつか、こんな日は来る。女王アンジェリークと一線を越えた時から覚悟はしていたつもりだった。…つもりだった。現実にはこのように、自分の身の振り方さえ決められないでいる。見た目だけは冷静なつもりで、机の上に溜まった書類をまとめてとんとんと端を揃えた。これらは全てオリヴィエ個人のもの。枚数を改めて鞄の中に仕舞いこむ間、アンジェリークからの問い掛けは一切無かった。ならばこちらから話し掛ける事も無い、とオリヴィエは何処か冷淡な気持ちでそう判断を下した。 鞄をぱちり、と閉める。その音に弾かれるように、アンジェリークの息を飲む音が聞こえた。 「…何処へ行くの? …オリヴィエ、」 「…何処。…決めてないよ、これからどうするか、なんてさ、」 熱い。とても熱い。心臓から溢れるようなこの気持ちは何なのだ。 「…そうなの…」 アンジェリークが近付く音。何処か危なげな足音。迷い無く、アンジェリークはオリヴィエの真後ろに立った。気配や影の形や、すぐ近くに聞こえる息遣いだけで判断する。彼女が手を伸ばせば、きっとオリヴィエを強く抱き締められるくらい強く。想像だけでその腕の強さを思い、オリヴィエは窒息しそうになった。実際には彼女が腕を伸ばす気配は無い、ただの妄想だ。 熱い。とても熱い。どくどくと心臓はうるさくがなり立てる。 熱い。とても熱い。 …この熱さは内から来るものではない。 アンジェリークが差し出したナイフが、深々とオリヴィエの背中に突き刺さっていた。 熱い。とても熱い。 「…何処にも行かせない。あなたは、私の隣にいればいいの…」 なぜだか、耳元に囁かれたような気がした。目を瞑って、最初の衝撃をやり過ごす。目の前は真っ白になる。それでも意識を失う事は叶わず、オリヴィエは机に向かって手をついた。じわりじわり、と来ていた痛みがここに来て引き裂かれんばかりのそれになる。 アンジェリークはいつしか笑い始めていた。この姿勢では彼女の笑い声しか聞こえないが、きっと彼女はいつになくいい笑顔なのだろう。 「どうして? どうして? どうして? 守護聖退任ですって? 主星を離れるですって? 馬鹿な事を。そんなの許さない。私の許を離れるなんて許さない。分かってるわ、あなたの事だもの、これで自由になれるとでも思ってるんでしょうけど――」 「――思ってなんか、」 「思ってるわよ。やっぱりあなた、とんでもない嘘吐きね。嘘吐きなあなたを誰が自由にすると思ってるの? あなたは一生聖地にいたらいい。ここから出る事なんて無いのよ。一生、…私の傍に…」 目の前が白く光る。様々な記憶が視界の端から端へと映る。良い思い出だけ、抜き取られて。 「ああ…熱い。とても熱いの。あなたの血が」 陶酔しきってうっとりと呟くアンジェリーク。オリヴィエも気が付いている、彼女の持つナイフから滴った血が、彼女の手を、彼女の体を、彼女の足元を染めているのだ。その赤さは満遍なくこの空間を満たしていく。 「あははははははははははははは、あはははははは、ずっと一緒よ、オリヴィエ…、寂しくなんか、無いから…」 けしてアンジェリークのために呟いたわけではなかったが、口から出た言葉ははっきりとした意味をもった彼女への贈り物だった。 「…そうだね。…分かっていたよ、こうなるだろう未来を。…それで私は、刺されるのを待っていたんだ」 きっと自分を逃す筈が無いと、知っていたから。 自由になるだとか、旅人になるだとか、それが全て妄想の産物に過ぎない事を理解していたから。叶わない泡沫の夢であると、はっきり感じていたから。 そして、それは間違いではなかったのだ。 とても静かに、音も無く、雪が降るような繊細さで、石が砕けるような儚さで、なんでもない日常は終わりを告げる。 おしまい |
■あとがき ここまで読んで下さってありがとうございました。 不安定な時期に書いたのでリモージュにもろにその影響がいきました。 ちょっとスクールデイズ(ギャルゲーのタイトル)みたいだ。 |
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