55.アニバーサリー |
この頃彼の様子のおかしいのを、ずっと見て見ぬ振りをしている。 オレンジの木の里。火龍族の里にて。 アンジェリークとジェイドはいつものようにその大木の元に座り込み、ぼんやりと空を見上げていた。空は澄み切っている。高く青い空。タナトスの事ばかり心配していた時代は終わった。呑気に外に出ても何の心配も無くなったし、こんなふうに空を見上げるだけの時間を過ごせる平和というのはなんと美しいのだろう。さんさんと降り注ぐ太陽光は少し眩しくて、とても心地よかった。 普通の人としてジェイドと共に生きる事を選んだアンジェリークに今、後悔は無かった。 …無い筈だった。 言い聞かせているのはアンジェリーク自身だった。後悔などあるわけが無いと。ジェイドと過ごすこの時間は、何よりの宝物であると。 後悔があるからといって、女王になりたかったわけではない。ただ、時折覗く苦痛から逃れたいがための言い訳。もしもあの時、ジェイドを諦め女王になる事を選んでいたら。今このように、苦しむ事も無かった。 その度に考え直すのだ。ただの人として、ジェイドと生きていくのが何より正解だったと。そうでなければ、こんな静かな時間を彼と共に過ごす事は叶わなかったのだから。例えば今その張本人の所為でこれほど悩み苦しんでいるのだとしても、この幸せに敵うものなど無いと信じたいのだ。 アンジェリークの心中を知ってか知らずか、ジェイドの微笑みは呑気なものだった。彼は左手を伸ばして彼にだけ見えるらしい「何か」を捕まえようとしていた。 ひらり、ひらりと彼の指が空を滑った。アンジェリークはただその長く繊細な指を食い入るように眺めていた。彼は何を捕まえようとしているのか、今度は。 「…見てアンジェ、蝶々が見えるよ」 また始まった。とため息は隠して心の底で呟いた。 それでも期待せずにはいられない。今度こそ彼に見えるものが自分にも見える事を。 アンジェリークにとっては、むしろ彼の指の不可解な動きこそが蝶々だった。 「どこですか?」 「こんなに近くにいるのに、見えないのかい? …ほら。黒い蝶々」 指差す先を追う。やはり、何もそこにはいない。不安になる。彼はこの頃こうやって、時折おかしな事を言うのだ。聞こえない音が聞こえたり、見えないものが見えたりするらしい。ただの不調ならばいいけれど、こうも頻発するとさすがに堪える。レインに相談しようかと思っているが、彼は留学のために数ヶ月前に船でアルカディアを出発していってしまったあとだった。すぐにでも呼び戻したいのも本音だけれど、生憎手段が無い。 答えあぐねる。しかし、何も言わないわけにもいかない。決心を固めると、アンジェリークはきっとジェイドを見据えて答えた。 「ジェイドさん、どこにもいませんよ。蝶々なんて」 「…。変だな。ここに。俺の目には、映ってるのに」 「…」 俯いた。彼の顔を見られない。どうしてかな、と彼は静かに呟いた。分かっては、いないのだ。アンジェリークが気が付いている真実に、ジェイドはまだ辿り着けずにいる。 「ごめん、まただね。…アンジェは気にしなくていいよ、俺は大丈夫だから」 にこり、と不安そうに見上げるアンジェに向かって微笑むジェイド。けれど、その目が笑いきれていないのに気が付いている。その瞳の焦点が合ってないのも気にかかる。 どうして、最近の彼はこうもおかしいのだろう。疑問は焦燥へと取って変わるけれど、さすがに面と向かってその言葉をかけるのは憚られた。彼自身があまりにも自覚していないのも気になる。 隣のジェイドが、もぞ、と動いた。どうやらぽかぽかした陽気にやられて、眠気に襲われているらしかった。そっと手を触ってみると、人間と同じように手が温かくなっている。 眠たい証拠だ。くすりと笑うと、ジェイドがそれに気付いたのか問うた。 「どうかしたのかい」 「眠そうだから、つい。ジェイドさんったら子供みたいでおかしいの」 「笑わないでよ。…恥ずかしいな」 「私、タオルケット取りに行って来ますね」 「うん。…起きたら、またタナトス退治に行こうね」 立ち上がりかけて、彼の放った言葉にぞくりとした。ジェイドの方はというと、安心しているのかあっという間に寝こけている。微かな寝息が聞こえた。 彼の頭の中では、一体何が起こっているのだろう。原因は分からないが、さしあたってアンジェリークにも分かる事はひとつだけだった。 彼の脳内では、記憶の混濁が起こっている。 分からなくなっているのだ。この現象は、随分前から実は発生していた。突然「陽だまり邸に帰らなきゃね」などと言ってアンジェリークを困惑させた事も、既に1度や2度ではない。それだけなら良いけれど、街中で「あそこにタナトスがいる」と彼自身にしか見えないものを指差して市民を混乱させた事すらある。 もう、終わっているのに。自分達の家にタオルケットを取りに走りながら、アンジェリークは吹き上げる気持ちを何とか堪えていた。この世界は救われたのに。彼の記憶の中では、未だに悲劇は終わっていないらしい。 自分を見てほしい。それでも、きっとあの瞳はこちらを見ないのだ。 おそらくは、勿論推測の域は出ないけれど、彼の脳は役目を終わらせ始めている。聞けば自分達より前の時代に生まれた命なのだから。どれだけ高性能だろうと、迫り来る使用期限には逆らえない。人間であっても、人間でなくても。 家に着く前に、ぱたり、と涙が頬を掠めた。きっと、レインの帰国は間に合わない。大した事無かった頃に戻って、レインを呼び戻したかった。彼なら、何とか出来るのに。無力な自分では、優しくしてあげる事しか出来ない。それがもどかしいのだ。 それともやはり、あの時ジェイドの手を振り切っていたなら。 女王になる事を選んでいたなら、今これほど苦しまずに済んだだろうか? 自分が望む事はただ、彼の傍にいたい、それだけなのに。 * オレンジの木の下まで戻ってくると、ジェイドが少し苦しそうな体勢で寝入っていた。 よくもまあそんな無茶な格好で。風邪を引きますよ、と苦笑いしながらタオルケットを彼の体に置いた。 ジェイドはぴくりとも動かず寝入っている。タオルケットを取りに行ってからまだ数分しか経っていないのに、もう熟睡してしまったのか。 ふと心配になった。眠っているのと、起きないのとでは意味が違う。ただ眠っているだけならいい。けれど、このままもしか、二度と目を覚まさなかったら。 起こすと悪いな、と思う反面、どうしても呼ばなければという思いにかられたアンジェリークは、そっと囁いた。どうしても呼ばなければならない。彼が目覚める事を、自分は確認しなければならないのだ。 「…ジェイドさん?」 アンジェリークの声が風に掻き消える。ジェイドの目は閉じたまま。 ざあ、と風が吹いた。アンジェリークの長く美しい髪は見事にあおられる。気付けば雲が出てきて、すっかり太陽を覆い尽くそうとしていた。光はまもなく完全に遮られる。 反応は無い。 それでも彼に直接触れる事は躊躇われた。理解してしまいたくない。彼の体の生ぬるい事を、知ってしまいたくないのだ。自分の伸ばした指先。彼に触れる事叶わず、また垂れ下がる。その様子が、まるで先程のジェイドの戯れに似ていた。 頬に触れて、生きていると信じたかった。もはや信じられなかった。 ああ、とアンジェリークは呟いた。とうとう、連れ去られてしまった。自分には分かる。彼は今、眠っているのではないのだ。 「ジェイドさん、…」 そうして記憶の混濁さえ起こっていた彼は、自分には告げずに去っていってしまった。 アンジェリークはその場に膝をついた。今日、彼に言ってほしいたったひとつの言葉があった。今日、彼に言いたいたったひとつの言葉があった。例えば思い出してくれなくても構わないから、それ一言だけを言う時間が欲しかった。 「ありがとう」を。 だって、今日は二人が付き合いだした記念日だったのだから。 わっ、と泣き崩れるアンジェリーク。 それでも、この道を選んだことに後悔など無いと今更にアンジェリークは気付いた。遠回りしたけれど、ようやく自分の気持ちが見えた。後悔など無かった。 自分は、これで良かったのだ。 例え彼の姿が明日見えなくなっても、今日まで一緒にいられた事が、何よりもアンジェリークの記念日となるのだから。 おしまい |
■あとがき ここまで読んで下さってありがとうございました。 めちゃめちゃ暗かったですね。 ジェイアン小説で一体いくつ暗いの書いたら気が済むんでしょうね、私。 |
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