58.言えない一言


 約束の地。
 漂う春の気配の中、アンジェリークとアリオスはそこにいた。二人して草むらに寝転がり、心穏やかにしていた。
 風に吹かれて大樹の葉が爽やかな音を立てた。
 アンジェリークの隣にいるのは記憶を持たないアリオス。アンジェリークの事さえ思い出せない、分かるのは自分の名前だけだという何とも頼りないアリオスひとりきりだ。しかも何とか覚えているその「アリオス」という名前さえ、偽名だと言うのに。彼にはもはや、その真偽さえ分からない。
 アリオスは空をぼおっと眺めながらアンジェリークの髪を手で梳いている。さら、と流れて途中で引っ掛かって止まるような事は無い。先程から何度も「お子様扱いはやめて」と窘めているのだが、彼は聞き入れてくれそうにもない。
 こうして幾度も逢瀬を重ねている事に、多少の罪悪感もアンジェリークにはある。それでも後戻りの出来ない気持ち。今更引き下がるつもりは無い。ようやく再会出来たこの人の手を離すつもりは無い。
 これほど重たい感情でアリオスを見ている自分に気が付いて、またアンジェリークは軽い自己嫌悪に陥る。記憶が無いアリオスを、そのままで愛したいのに過去が邪魔をする。記憶が無いのなら戻らなくても構わないから傍にいてほしいのに、また苦しむくらいなら記憶など無くても良いと思うのに、自分が見ているのはそういうアリオスなのだ。
 また苦難の道に引き摺り込もうとしている。彼を。
「なあ、もし、って仮定で聞けよ」
 ふと、アリオスがそんな前置きで話し出した。何でもはっきりしていないと気の済まない彼らしくない、とアンジェリークは視線をアリオスへと向けた。
「うん…?」
「もし俺が記憶をすっかり取り戻したら、お前どうする?」
「えッ?!」
 突然聞こえてきた思いがけない言葉に、アンジェリークは目を見開いて飛び起きた。その反応に「やっぱりな」とアリオスは嘆息し、つられるように起き上がるとアンジェリークの頭をひと撫でした。
「お前は本当に早とちりだな。もし、つってんだろ。お前何聞いてたんだよ」
「う…」
 頭を撫ぜられて、むくれたいところなのにその行為が嬉しくて不機嫌になれない。子ども扱いされているのは気にかかるところだが、単純に触れてくれるのが嬉しいのだ。
「仮定だからな、適当でいいけど。お前、どうする?」
「どうするって…」
「例えば俺には恋人がいたかもな。そうだとしたら、俺に記憶が戻ったらお前には不都合だろう?」
「…」
 不都合だと言い切ってしまう、アリオスの自信過剰な一言は捨て置く。
 突然言われても、とアンジェリークは困惑した。とりあえず、困ったなあ、と前置きした。冗談言わないでよ、などと言って誤魔化そうとも思ったが、それにしたってアリオスの真剣そうな視線が気にかかる。仮定だから、と彼は言ったが、それならどうしてそんなにじっと見つめてくるのか。アンジェリークの答えひとつで全てが決定すると言わんばかりに。
 簡単に、記憶が戻るわけは無い。
「…多分すっごく驚いて、でもどうもしないと思うわ」
「何で」
「だって、記憶を取り戻すって事が、あなたのためになるのかどうか私には分からない。それは本当にあなたの救いとなるのかな。楽しい事だけ思い出すのなら、いいけど…そうじゃないのなら私は単純には喜べないし歓迎出来ない。だから、何もしない、よ」
 本心だ。物事を深く考えすぎるきらいのあるアリオスが、記憶を取り戻す事で思い悩んでしまうくらいなら、過去など要らない。彼が苦しむのを見るくらいなら、自分の事など思い出してくれなくとも構わない。こうして約束の地で会えるだけでも、元々過ぎる程幸福なのだ。
自分の事を思い出してほしいと願う気持ちに嘘偽りは無い。自分の名を、アンジェリーク・コレットの名を呼んでほしいという願望は有る。それでも彼が傷つく姿は見たくない。
 彼の保持している記憶が、ただ楽しいだけではないのを知っているからこそ、おいそれと「記憶が戻ってほしい」とは祈れない。
「そうか」
「それにね、…」
 そして、彼が記憶を取り戻したとしても何もしないと答える理由は、それだけではない。
 記憶を取り戻したアリオスが自分を選んでくれるかどうかが分からない。記憶を持たない今のアリオスならば、きっと取り入る事も難しくないのだ。しかし完全なアリオスに果たして今の自分の居場所があるのか。永遠となったエリスには、どうやっても一生敵わない。彼がどちらを選ぶのか、アンジェリークにはまるで見通せなかった。記憶を取り戻したアリオスの前で自分がうろちょろするなど、エリスはきっと喜ばないしアリオスもそれを望むかどうか。
 勝ち目は、まず無いだろう。自分を選んでくれる利点なんて、せいぜい「生きている事」くらいしか思いつかない。

――愛しているとただ一言告げれば、世界はきっと変わって見えるのに。

 言えるわけが無い。一体どの顔でなら告白出来ると言うのだ。それを考える度毎に浮かぶエリスの顔。幻影としてアンジェリークの前に現れたあの姿のまま、その無表情さで今も時折アンジェリークを苦しめる。アリオスは永遠にエリスのものになったのだ…。
「何だよ」
「ううん、何でもない」
 悲観的な思考は隅に押しやる。痛む心臓は感じなかった振りをする。切なさは、ここには無かったと思い込む。
 今出来る事は、ただ彼の傍にいる事だけ。記憶を取り戻してしまう、いつかその日まで。
 きっと自分を選んでくれる事を信じて。



 そのあと、二人は日暮れまで喋り続けて。記憶が云々という話はもうしなかった。仮定の話など、いくらしたところで得るものは無いのを二人とも分かっている。分かっていてなおその話を切り出したアリオスは、自分自身が愚かである事を十分に認識している。
 夕日が見え隠れする頃、「そろそろ帰らなきゃ」と言うアンジェリークを何度か引き止めたあと、最終的には家まで送り、またアリオスは約束の地へと戻ってきていた。
 今日も、また言えなかった。とアリオスは大樹に寄りかかった。口の端に浮かぶのは自嘲を含む苦笑。自分のあまりの不器用さに、既に笑いしか出て来ない。それは仮定だ、という前置きで話し出したのはいいものの、結局はその言葉が出てこなかった。
 思いをそのまま言葉に出して、アリオスは自らを詰った。
「馬鹿だな、俺も」
 本当はとっくの昔に記憶を取り戻している事を。未だに言えずにいる。アンジェリークの悲しそうな顔ばかり浮かんで、躊躇う日々は続く。記憶を取り戻したと聞いて、アンジェリークが純粋に喜ぶとはまるで思えなかった。
 今更アンジェリークに思いを告げて何になる。アンジェリークの今の立場の事もある。例え向こうも同じ気持ちであると仮定してみても、幸せな将来には結びつかないだろう。周りから猛反対を食らって別れさせられるのがオチだ。アンジェリークを苦しめる未来ならば、欲しくはない。今はただ、この約束の地でささやかではあるが同じ時間を過ごせるだけで満ち足りているのだ。
 彼女の立場が全ての原因と言うつもりは無論無い。
 結局自分の記憶なんてものは、彼女を苦しめるだけでしか無いのだ。この記憶は、当然アリオスの救いとはならず、またアンジェリークの救いにもならない。不幸を決定付ける兆しでしかない。こんな記憶ならば、無い方のが余程良かった。記憶の無い自分ならば、ただの一般人であり続けられる。アンジェリークにしても、変に気負わずに自分に会いに来てくれる。
 逆に考えれば、記憶の戻ったアリオスに対してアンジェリークは警戒心を抱いてここにはもう来てくれないかもしれない。その恐怖が常にある。しかし、愛している事の証明にはどうしたって自分の記憶が必要だ。
 考えが混乱するのを覚えて、アリオスはぐしゃぐしゃと髪を乱暴に掻いた。ただ一言、言いたい事があるだけなのに、どうしてここまで複雑になってしまうのか。苦悩を越えて、アリオスは神経が病に冒されていく感覚を覚えた。袋小路に入ってしまって、出口などひとつも見えない。引き返すつもりこそ無くても振り返ったその時、帰る道すら無くなっているのに気が付くのだ。
「どうしたら、いいんだ…俺は…」
 アリオスは小さく歯軋りした。

――愛しているとただ一言告げれば、世界はきっと変わって見えるのに。

 言えるわけが無い。一体どの顔でなら告白出来ると言うのだ。彼女は女王、自分は罪人。それを忘れた事は無い。忘れられるわけはない。
 罪を犯さなければ今頃彼女には出会えていなかった。それを思えば、自分は悪事に手を染めるしか道は無かったのだろう。しかし罪ゆえに彼女との距離に迂闊に踏み込めない領域が出来てしまった。
 罰を受けるのも、詰られるのも構わない。けれどこんな苦悩はもうたくさんだ。ならば解決法はひとつだ。アンジェリークと築けるかもしれない未来を捨てて、二度とここには来ないようにすればいい。それが出来るのなら、とっくにそうしている。出来ないから、いつまでも約束の地でこのように逢瀬を繰り返してしまうのだ。
 告白すれば、この関係はどう変わるのだろう。自分は記憶を保持している。アンジェリーク・コレットを愛している。全ては壊れてしまうだろうか。言う事が正しいのか、言わない事が正しいのか。堂々巡りの考えは、アリオスの脳を蝕んでいく。
 思いは募る。言えない言葉ばかりが積もっていく。


おしまい


■あとがき
「アンケートついでにリクエスト企画(2007年2/15〜3/15)」の第七弾。
「アリコレでシリアス」でした。アリコレ…といいますか、アリ→←コレになってしまいましたが…。
結論は簡単な事なのに、この二人は物事を難しく考えすぎるところがあるように思います。
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