69.プラチナリング


 守護聖退任。
 言葉にすればひどくそっけない事実に、アンジェリークは身が震える思いがした。
 真向かいにいるクラヴィスがそっと目を伏せた。
 守護聖退任。
 二人を引き裂くのがそのたった5文字。未だに信じられない思いだった。
 トランクを脇に置いた彼が口を開いた。
「…元気で」
 長い間、ずっと一緒にいた人間に対して言う事だろうか?
 そんな一言で、全てを済ませてしまいたくない。離れたくなんて、ないのに。

 いなくなってしまうのだ。この人はどこか遠くへ。
 実感の伴わない事実。二人はただ星の小途で向かい合うばかり。
 次代の闇の守護聖が来るまでは、ここにいて。仕事の引継ぎもあるでしょ。そう言って何度も引き止めた。しかしこう見えてなかなか頑固な所のある彼は、けして首を縦には振らなかった。
 理由は明らかにはしなかった。老兵は死なず、ただ消えゆくのみ。定かではないが、きっとそんな事を考えているか、それかよっぽど守護聖という職務に興味が持てなかったのか、そのどちらかだ。

「…ロザリアに話はつけておいた」
「ロザリアがどうか、したの」
「いつでもお前が来れるようにと」
 何の話? とアンジェリークは首を傾げた。ロザリアからは何も聞いていない。
「何の事? 私、聞いてないわよ」
「主星に居を構える事にした…いつでも、来たい時には来るがいい」
「…な」
 何にも話してくれないで、そんな事を勝手に決めて。本当は来てほしいのは自分の癖に。変な意地を張って。だいたい、主星にいたところで女王が簡単に休暇など取れるわけがない。
「日の曜日は、暇なのだろう…毎週、私の所に来ればいい」
「ロザリアは、なんて?」
「女王陛下の仰せのままに、…だそうだ」

 会いたいのも、本当。
 だけどそんな我が儘が許されてもいいの?

「私…行ってもいいのかな」
「何のために、私がわざわざ主星に残る事にしたと思っている。聖地から離れる事も、時にはお前には必要だろう…」
「私のため、という事なのね」
 故郷に戻る事も出来た。それをしないのは。
 遠まわしすぎる彼の言葉にアンジェリークは苦笑を浮かべた。
「分かった。来週、日の曜日に。必ずあなたに会いに行くから」
「ああ…では、次の日の曜日に。待っているぞ…」
 ぐい、と。
 ふいに腕を引っ張られクラヴィスの胸の中に倒れこんだ。
 ふわ、と彼の匂いに包まれる。
 ああ、暖かい。そう感じた時に、クラヴィスが耳元で囁いた。
「どうか、元気で…私のいない場所でも…」
 その声音は今まで聞いた事がないくらい、ひどく優しげで。有り得ない、と否定したくなる程に寂しげで。
「大丈夫よ…あなたがいなくても、ちゃんと頑張るわ」
 そっと。彼の体に腕をまわして、それに答えた。
「あなたのいない聖地は、寂しくなるけれど。それでも頑張るわ」
「それならば、安心だ」
 かすかに笑みを含んだ声が、アンジェリークの耳朶をくすぐった。

 さらに腕に力を込めながら、アンジェリークはしばらくクラヴィスを離そうとはしなかった。

 クラヴィスが主星に下ったその日。
 アンジェリークは、真実をまだ何も知らないでいた。



 約束していた日の曜日が、やってきた。
 そわそわしながら、それでもきちんと仕事はこなす。それがクラヴィスと交わした約束だからだ。
「ねえ、これで今日の仕事は終わりでしょ? もう、行ってもいいでしょ?」
 だいたい、日の曜日にも仕事をこなす自分は、なんて仕事熱心なのだろう。と感心せずにはいられない。
「あんたって子は、ホントに…」
 多分、女王より補佐官の方が仕事熱心な宇宙など、ここぐらいなものだろう。女王補佐官は胡乱な目つきでアンジェリークを見遣った。
「仕方ないわね。…でも、行くってどこに?」
「やあね。決まってるじゃない。クラヴィスの所によ」
 許可を。クラヴィスから頼まれて許可を出したのでしょう?と問うと、ロザリアは怪訝な顔をした。
「何の事? わたくしはクラヴィスからは何も聞いていないけれど」
「嘘。だってクラヴィス言ってたもの。ロザリアから許可をもらったから、日の曜日にうちに来なさいって。故郷にじゃなく、主星で生きるから、来い、って言ってたわ。…何にも聞いてない?」
「許可…」
 ロザリアはそのほっそりした人差し指を顎に当てて考えた。分からないらしい。
「…私、クラヴィスの所に行っちゃダメなの?」
「どうしてクラヴィスは嘘を付いたのかしら。あるいは…あなたに先に伝える事で、どうしても主星に降りさせるつもりだという事? あなたに伝えれば、あなたは絶対にわたくしの言う事なんて聞かないでしょうから」
「ねえ、ロザリア、」
 重ねて訊くと、ロザリアはその形の良い眉を歪めた。ロザリアらしくも無くアンジェリークの強い意志に困惑しているらしかった。
「…、ねえ、アンジェリーク」
「何?」
「行くのは、お止しなさい」
 散らばる書類。埋もれる指。ひやり、とアンジェリークは指先が冷たくなるのを感じた。なぜそんな事を言うのだろうか。突然の要請は不気味でさえあった。
「何で、そんな事言うの」
「それは…」
 目を伏せて、こちらを見ようとはしないロザリア。いつもは、こうではないのに。彼女は常に自分の意思を伝えるためにこちらと目を合わせようとしたものだった。
 理由さえ隠して。口篭るロザリアなんて、今までに見た経験は無かった。
「分かった。ロザリアったら、私の幸せを妬んでるのね」
 冗談で、軽く笑ってみせる。ロザリアはつられない。重たい紫の瞳が、ただ深い色に染まっているのをじっと見ていた。どうして笑わないのだろう。怒ってもくれないのか。
「行けばきっと、後悔するわ」
 ただ行くな、とばかり念押しするロザリア。それでは分からない、と歯噛みした。
「行くわ。だってそれが約束だもの。もう1週間も会ってないのよ。…ロザリアにだって大切な人がいるなら分かるじゃない。1週間も、遠くにいるなんて耐えられない」
「約束…、クラヴィスがそう言ったの?」
「言ったわ。…何か問題が?」
 おかしな部分を確認する。約束していたという事が、そんなに滑稽なのだろうか。
「…クラヴィスの考えている事は、わたくしには理解出来なくてよ。アンジェリークが泣くのが、わたくしには容易に想像出来るのに」
「泣くって、どういう意味」
「そんなに強情なら、行けばいいわ、主星へ。クラヴィスのいる場所まで行ったらいいわ。そこで何を見るのか…何を見ても、わたくしは制止しましたからね。もう何も言わなくてよ。勝手にしたら良いわ」
 ロザリアこそ、勝手な事を言う。先程まであんなに止めていたのは、一体何だったのか。お別れの挨拶も無いまま、ロザリアはアンジェリークの執務室を立ち去った。
 あとに残されたのは、アンジェリークとトランクひとつのみ。
 謎めいたロザリアの言動には、取り敢えず置いておくとして。そろそろ時間だった。行かねばなるまい。彼の元に。…例え何を見ても。ロザリアの言葉が何を指すのか、分からないけれど。
 左手に握ったままの紙切れを見た。住所が記されている。クラヴィスが住んでるという家の住所だった。主星の中心地に程近い、比較的自然の残された村に住んでいるらしい。
 彼らしい選択に、笑みが零れた。早く会いたい。彼の腕の温度を感じながら、アンジェリークはトランクを掴んで執務室から飛び出した。



 思うのはただ彼の事ばかりだった。
 星の小途を越え、鈍い音とともに主星に降りて。そこから電車を乗り継ぎ、1時間程。
 がたごとと揺られながら、その間も彼の事ばかり考えていた。
 リュミエールがいないけれど、きちんと彼はひとりで生活できているだろうか? 生活能力が皆無なのは、自分が一番よく知っている。仙人のような、とにかく人間離れしたところのある彼の事だ。死んではいないだろうと思うものの、何を食べて生きているのか想像も付かなかった。
 とにかく早く会いたかった。抱き締めてもらいたかった。
 電車が終点に辿り着くと、そこから地図を見て歩いた。思った程の距離も無い。方向音痴なアンジェリークのために、わざと分かりやすい所に住む事にした、とクラヴィスは言っていた。馬鹿にしているとむくれたものだが、 こうしてみると彼の判断は正しかったのだとようやく分かる。
 慣れない道をひとりで歩くのは、心細い。しかし慣れなければならないだろうとも感じていた。そのうちに何度もここを往復する事になる。幸せな期待を持って往復する日が。
 彼との、流れる時間が違うのは承知の上だ。自分より、彼の方が圧倒的な早さで先に逝ってしまう事を承知している。それでも、二人の残された時間を大事にしていきたいのだ。
 クラヴィスの事を、愛しているから。想いは、それだけで十分だった。
 透明度の高い川に沿って歩き、赤くて小さな橋を渡ってからさらに数分歩いたあと、ようやくアンジェリークはそれらしい建物を発見した。地図とも合致している。
「…これね」
 ログハウスのような、木造独特のぬくもりを残した家だった。かろうじて2階建て、という程度の広さしか感じられない。新築ではないが、責める程古びているわけでもない。可愛らしさもどことなく帯びている。窓は大きく、光がよく差し込まれるように設計されているようだった。窓の向こうはカーテンに遮られていて見えない。クリーム色のカーテンはその暖かみのある家によく似合った。
 …正直言って、これがクラヴィスの趣味だとは到底思えなかった。窓が大きい時点で、既にクラヴィスの趣味では無い。彼ならもっと、神秘的でアンジェリークには理解出来ないような、いわば宇宙空間みたいな家に住んでいるのだと信じきっていた。
 これはクラヴィスの趣味というよりもむしろ、アンジェリークの趣味に近かった。可愛い、とは思うものの、ここにクラヴィスが住んでいると考えるのは不気味でさえあった。
 アンジェリークはひとり、ごくりと唾を飲み込むとその家に向かった。玄関の真向かいに立ち、息を整える。この向こうにクラヴィスがいるのだと思うと、鼓動が逸った。彼はどうやって迎えてくれるだろう? 彼はどうしているだろう? 本を読んでいるだろうか? それともいつもの瞑想という名の睡眠に?
 想像をしまいこむと、わくわくした心持ちでアンジェリークは呼び鈴を鳴らした。りん…、と微かな音で鳴る。わくわくしながら扉が開かれるのを待った。
 扉は開かれなかった。
 不審に思いながら、もう一度鳴らす。誰も出ない。しばし待ったのち、もう一度。やはり誰も。
 留守なのだろうか? 自分から約束を作っておいて、どこかに出かけているのだろうか? いつもいいかげんで適当な人だけれど、約束を反故にする人とは思えない。何か理由があって、出られないのだろうか。体調でも崩しているのかと考えた。有り得る可能性だ。食べるのが面倒臭くて寝込んでいるなんて、彼らしい。心配させて、と呟くとアンジェリークはどんどんと扉を叩いた。
「私よ! 玄関にまで来れないっていうの? 開けてちょうだい!」
 返事は無い。アンジェリークはさらに扉を叩き、ついにはそのノブに手を掛けた。
 途中で止まる事を想定して回したノブは、しかし最後まで回ってしまった。難なく扉は開かれてしまう。
 アンジェリークはただびっくりして、目の前に現れた空間に踏み入る事無くその場で目を白黒させていた。一体どういう事なのだろう。無用心なのにも程がある。彼らしいといえば彼らしいかもしれないが、それにしたって限度がある。無人の家に踏み入ってしまったようで、何だか気味が悪かった。
「クラヴィス…? いないの…?」
 先程とは打って変わって静かな声音で問い掛ける。返事は無い。どこまでも無音だった。
 玄関から覗ける範囲では、書き物机とクローゼットと、食事用の机と椅子2つしか見当たらない。逆に言えば、家具以外のものが何ひとつ無い事に、アンジェリークは思い至った。
 この家で一体何が起こったのだろう。クラヴィスが不在の家。家具しか置かれていない、生活感の無い家。本当にクラヴィスが暮らしているというのはここなのだろうか? しかし、地図と正しく合致するのはどう考えてみてもこの家しか無いのだった。
 ふいにロザリアの言葉が頭を掠めた。『行くのは、お止しなさい』今更ながらその言葉の本来の意味に、じっとりと背中に汗をかくのを覚えた。まさかこれの事を言っていたのだろうか。しかし解せない。なぜクラヴィスはいないのか。聖地で1週間といえば、地上では1ヶ月かそこらである。死ぬには早すぎる。
 あまりにも不吉な考えが脳裏に浮かんだ事を後悔しながら、思い切ってアンジェリークはこの家に一歩踏み出してみた。何にせよ、この家を調べてみなければ分からないだろう。クラヴィスが出てこられないなら、何か残していく事は十分に考えられた。
 果たして、机の上に残された白い封筒を見つけた。宛名を見て、胸が震えた。

「アンジェリークへ」

 クラヴィスだ、と直感した。確かにその流れるような筆跡は、間違いなくクラヴィスのものである。
 迷う事無くその封筒を手にとって、封を切った。手紙が、2枚入ったきりである。その手紙を開く前に、何度も深呼吸してから、壊れ物を扱うようにそっと手紙を開いた。
 途端、流麗な字が飛び込んでくる。クラヴィス本人の筆跡だ。手紙の冒頭も群青色の「アンジェリークへ」から始まっているその手紙を、確かめるように一字ずつアンジェリークは追った。
 一行進む毎にアンジェリークの顔は曇り、一行進む毎に痛い程にロザリアが正しかった事を感じた。
 手紙の最後を何とか読み終わったあと、アンジェリークはその場に立っていられなくなり、その場に突っ伏した。こみ上げるものを堪える事が出来ず、涙が溢れ出た。
「…嘘よ」
 嘘だ、と思いたかった。しかし現実に、彼はここにはいない。
 この地上のどこにも、彼はいない。どこを探しても。
 アンジェリークが放った手紙が、机の上を滑って床に落ちた。その手紙は、こう読めた。

「アンジェリークへ
 この手紙をお前が読んでいる頃には、私は既にそこにはいないだろう。
 驚かせてすまない。これは、お前に宛てた最後の手紙なのだという事を了解して、この先を読んでほしい。
私は既にこの世にはいない。
 アンジェリーク、守護聖を降りた人間がどうなるのか知っているか。女王や、他の年若い守護聖達には慣例的に本当の事を知らせない事になっているから、お前は知らないだろうと思う。
 守護聖を降りた人間は、一般的にはただの人間に戻り、改めて人間のコミュニティに戻るとされている。実際は違う。聖地を下った瞬間から、止まっていた時間が動き出すのだ。聖地に行ってから止まっていた時間分が一気に動き出す。自分自身の体の崩壊は免れまい。私や、ジュリアスのように在位期間が長ければ長い程動き出すまでの時間は短く、塵さえも残らない。
 この家には誰もいないように、お前は感じられただろう。そうではない。私の体はそこにあったけれど、既に何も残ってはいないのだ。千年単位の時間は、私の細胞ひとつさえ残さない。ここに来るのとほぼ同時刻くらいに、私は空間に溶けて消えてしまっているだろう。あまりに残酷な未来しか持たぬ我々を過去の女王は忌み、それ以来守護聖の終わりは秘匿されたのだ。
 この世界は元守護聖であったものが、この世に留まる事を嫌う。私の体だけではなく、私の私物も全て消えうせている事と思う。この家に何も無いと、もしもお前が思ったのなら、それが私の私物がこの世界から全て消えているからだ。元守護聖は、既に人間でも守護聖でもない。半端者が人間のように振舞う事は許されないのだ。元守護聖が人間のように暮らした証拠は全て隠滅される。
 この手紙は主星に下る前に書いたものだ。ここへ着いてからでは、おそらく間に合わないだろう。
 本当の事を言えなくて、すまないと思っている。このような形でしか真実を伝えられない私を許してくれ。
 そして、もうひとつ。封筒の中に同封しておく。今更だ、とお前は私を嘲笑するやもしれぬ。しかし、それでも私には今この瞬間にお前に渡す必要がある。これで、二度とお前は私を忘れなくなる。
 悪い男だと、つくづく思う。逃れられる運命に反抗するために、それを同封するのだ。お前がそれを受け取ってくれたのなら、私はお前の傍で永久に生き続けられるように思う。
 愛を込めて  クラヴィス
追伸:この家は既に私の持ち物だ。私本人はいないが、好きに使うといい。私がいなくとも、この家はお前にとって必要になるだろう。いつでも、私はいないけれど、疲れた時に聖地から抜け出ていつでもここへ来ると良い。それが、私がお前にしてやれる全てだ」

「嫌あッ…」
 手紙。その一語だって信じたくない。
 いないって、何の事よ、とアンジェリークは半狂乱になんて叫んだ。約束だって、言ったじゃない。その時が来るまではひとりにはしないって。日曜日に、ここで。会うって言ったじゃない。クラヴィスは嘘吐きよ。わああ、わああ、と子供のように頭を抱えて涙を流した。
 今ならようやく、クラヴィスのおかしな態度やロザリアの不審な態度にも得心がゆく。あれは、こういう事だったのだ。女王補佐官には秘密は公開されるらしい。ロザリアはこの事を知っていたのだ。女王が知れば、女王は力を失った守護聖を聖地に留まらせようとするだろう。聖地が人間に冒されないようにするため、歴代の女王にはその秘密は決して公開されないのに違いない。
 吐き気がした。知っていたなら、止めていた。自分が隠された真実に敏感であったなら、彼は死ななかったかもしれないのだ。責任の一端を感じた。彼自身、聖地のどこかに隠れる選択肢だって選べたに違いないのに、どうして彼はただの人間に戻る事を選んだのだろう。解せなかった。
 涙は頬を伝う。しばらくそうして泣いてから、そのままの姿勢でぼんやりしていると、ふとクラヴィスの書いた手紙の文面の一部が頭の中で繰り返された。「そして、もうひとつ。封筒の中に同封しておく。」あれは一体何の事だったのだろう。涙もそのままに、慌ててアンジェリークは封筒を掴み取ると中から取り出した。
 指輪…、プラチナリングだった。
 改めなくてもよく理解出来た。誰からの誰のためのものかぐらい、見なくても理解出来た。
 彼がもはや何も言う事が出来なくても、意志はよく伝わった。一言で表すなら、それはこう言う事が出来た。
 求婚。
 眩しいプラチナ。カーテンの隙間から漏れ出る光に反射してとても眩しくて、またアンジェリークは泣けてきて仕方が無かった。彼は一体どんな気持ちでこれを同封したのだろう。受け取るとでも思っているのだろうか。ここまで散々馬鹿にされて、受け取るとでも思っているのだろうか。ふざけている、と思った。ひとりにされる気持ちを、彼は全く分かっていない。
 だのに、自分の右手が自分の左手に指輪を嵌めるのを、どうする事も出来ずに呆然と眺めていた。まるで初めからそこにあったかのように、指輪のサイズはぴたりと自分の指の太さと一致していた。カーテンの向こうの光に、かざして見る。眩しいプラチナ。その純粋な美しさに目を晦ませながら、アンジェリークは自分の掌の向こうにも何か光を反射するものが落ちているのに気付いた。
 一、二歩近寄り、その正体に気付いた時アンジェリークは声を上げる事さえ出来なかった。それは指輪だった。プラチナリング。目の前が真っ暗になった。
 彼は、ここで。指輪を嵌めたままいなくなったのだ。彼自身も、彼の衣服も彼の私物だから、掻き消えてしまうけれど。プラチナリングはその制約から外される。なぜなら指輪は彼個人のものでなく、正確には二人のものだから。
 手紙の文面が、再び彼女に語りかけてくる。「逃れられぬ運命に反抗するために、それを同封するのだ。お前がそれを受け取ってくれたのなら、私はお前の傍で永久に生き続けられるように思う。」彼の声が、彼の命が。自分の中に満ちていくのをアンジェリークは感じた。生きていけるのだろうか。指輪を受け取り、女王が交代となるその日まで嵌めていたなら、彼は永遠に自分の傍にいてくれるのだろうか。
 全て彼の計算の上に成り立つ世界なのだという事をひしひしと感じた。こうやって衝撃的な方法で指輪を渡し求婚すれば、ある意味でアンジェリークは永久にクラヴィスを忘れられなくなるだろう。それこそ彼が望んだものだった。だからこそ、彼は地上に戻る事を望んだし、アンジェリークに主星に降りるように言ったのである。彼の望みどおりに自分が動いている事に、むしろ満足感さえ覚えた。
「ずっと…私だけのクラヴィスでいてくれる? …」
 返事は、無かった。それでも言わずにはいられなかった。
「例え、あなたが見えなくても」
 あなたの方から私が見えなくても。
「愛しているわ…」



 新しい闇の守護聖は、クラヴィスとは似ても似つかない朗らかな少年だった。どちらかというとランディを彷彿とさせるような。慣れない環境に戸惑い、あちこちと視線を彷徨わせる彼に、アンジェリークは優しく声を掛けた。
「これから…、長い付き合いになるけれど、よろしくね」
「はい、よろしくお願い致します、陛下!」
 がちがちに緊張して、舌も上手く回らないらしかった。飛空都市に来たばかりの頃の自分を思い出した。あの時の自分と、大差ない。過去の自分を見ているようで、この少年に親近感が湧いた。
 彼が正式に守護聖に着任して、まだ半日である。教えなければならない事も、覚えてもらわなければならない事もたくさんあるけれど、今日のところはこの「女王陛下への謁見」で終わりだろう、と踏んだ。
 謁見の間にて、ただ今の瞬間は彼と自分の二人きりの空間。凍える程に静かだった。
「それじゃ、明日から頑張ってもらう事になるけれど」
「あ、あの。陛下」
 今日はこの辺りで解散しましょうか、と言い掛けた時、彼が突然手を挙げた。学生気分が抜けないらしかった。
「何かしら」
「お伺いしたい事が、あります」
「何でしょう?」
「前闇の守護聖について教えていただきたいのです」
 ぞっとした。しかし、そんな気持ちをおくびにも出さず言葉を重ねた。
「知ってどうなるの?」
「参考にしたいと存じます」
「彼は、参考になるような人物では、残念ながら無かったのだけど」
「構いません。教えていただきたいのです。自分と同じ力を持った人が、どういう生き方をしたのか」
 意外に強情なところがあるらしかった。嘆息し、思い出すように視線を巡らせた。彼との思い出なら、本当に数えきれないくらいにある。言葉に出来ないような気持ちをいくつも体験させられた。他の人との付き合いでは、きっとこうはいかなかっただろう。全てはあの人を選んだ時から決まっていたのだ。
 では今も、そうなのだろうか。このように新しい守護聖がクラヴィスの過去について知りたがるのも、予測のうちだっただろうか。頭の回転の鈍いアンジェリークには、予測の範囲を超えられないけれど。
「そうね…、何から話したらいいかしらね…、」
 静かに目を閉じた。浮かぶのはただ、あの小さな家の事。誰もいない家。だけどそれは確かに、アンジェリークの帰るべき家なのだ。鼻の奥がまたつん、とするのを感じた。傍にいなくても、傍にいてくれる。思い出話になんて、永久に彼はならないのだ。
「たくさんありすぎて、何て言っていいか分からないわ。ただ…言えるのは」
 あの人の、波打つ緑の黒髪を思い浮かべた。
「すごく、素敵な人だった…、って事かしらね」

 その時きらり光ったのは、涙か、或いは。


おしまい


■あとがき
こんなめんどくさい話を最後まで読んで下さってありがとうございました。
クラヴィス様の歌・「世界でたったひとつの場所へ〜home green home〜」を聴いて思いついた話です。
あの歌はまんまこういう事なんだと、私は解釈しています。
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