女王の執務室に「私用」で呼び出されるのは初めての体験だった。
いつもならば執務室以外の場所でお互いに「私」で、或いは女王の執務室でお互いに「公」として会うのが常であるのだが。第256代女王アンジェリーク・リモージュは、時々オリヴィエには思いもかけない事を仕出かす。今回オリヴィエを呼び出したのも、そういった思いつきもしないような事を考えての事かもしれない。
オリヴィエはアンジェリークの執務室の前に立つと、軽くノックした。即座に「どうぞ」と鈴を鳴らすような声が聞こえてきた。
「…陛下、失礼致します」
音を立ててノブを回してみれば、アンジェリークは執務中であるにも関わらず机を離れ、窓からじっと庭を見つめていた。こちらを振り返る事も無い。オリヴィエがこの時間帯にやってくる事など、とうに分かっているのだろう。誰であるのか確認さえしない。
オリヴィエはかつかつと硬い音を鳴らしてアンジェリークの隣へと歩を進めた。同じように窓から外を見てみれば、この執務室から見える聖地の際立った美しさがよく分かった。何度見ても飽きる事は無い。
アンジェリークは何も言わないで、窓の縁に手をかけたままじっと庭を見つめている。倣って、オリヴィエも外を見た。どちらからも言葉を発しない。ここは「公」として接するべきなのか、「私」として接するべきなのか計りかねてオリヴィエは押し黙ったままでいた。
そのまま、ちらりと視線をアンジェリークに送った。
相変わらず、小さい。その小さな体の一体何処にそんな力が存在するのか分からないが、彼女はひどくパワフルなのだ。それでいて、放っておけない危うさも備えている。オリヴィエという人物は、そんなアンジェリーク・リモージュの魅力にすっかり参ってしまっている人間のひとりなのだ。
女王に心酔している守護聖などいくらでもいる。オリヴィエの「参っている」というのは「私」の面においてだ。…オリヴィエとアンジェリークは恋人関係にある。これは聖地でも極僅かな人間しか知らない、極秘事項である。
そのままアンジェリークを見つめ続けていたところ、彼女はようやく口を開いた。こちらには視線のひとつさえくれない。
「――見て、オリヴィエ。睡蓮の花が…咲いてるの」
何を言い出すかと思えば、庭の話。
女王の執務室には、守護聖たちの執務室とは部屋の方向が違うために、ここでしか見られない風景というものが存在する。池というのがそれだった。季節の変化の無い聖地とはいえ、女王の心を和ませるため定期的に植物は入れ替えられている。今は睡蓮の時期だと、何処かの筋から聞いた。
この場所からでしか見られない、特別の風景にオリヴィエは目を細めた。
「可憐だね。淡い黄色…今度、私のファッションにも取り入れたい、美しい色だ」
睡蓮の葉に埋め尽くされた池は、それでも水面を時々覗かせる。狙っているかのようなタイミングで太陽の光は降り注ぎ、ちか、ちか、と水面は反射する。睡蓮の花は他にも桃色などがある筈だったが、アンジェリークの好みに合わせてあるのかこの池にある睡蓮は全てレモン色だった。
そのレモン色は例えようも無く可憐で。凛と気高く咲き誇り、自分だけがこの世界にあるかのような主張を繰り返している。直視さえ出来ない程の、犯せない清純さを感じてそっとオリヴィエは目を閉じた。見れば、睡蓮は穢れてしまう。そんな気がした。
「…」
他の用事の有る事を、知っている。私事で呼び出したとはいえ、まさか庭の話をするために呼び出したわけではあるまい。気付けぬオリヴィエでもない。そして敢えて遠回しに話を進めようとするアンジェリークでもない。珍しい事だった、奥歯にものの挟まったような物言いをする彼女が。言いにくい事があるのだと気付いているから尚更、野暮な事は言うまいとオリヴィエは目を伏せて、アンジェリークの言葉の続きを待った。
風がさやさやと流れていく。風が流れる毎に音を立てるのは、池に隣接する大木だ。この女王陛下の執務室でしか見られないもののひとつである、葉の黄色い木。名は知らぬけれど、その葉が黄色く色付いて枝から落ちてきて、時折風に乗って陛下の執務室にまで入り込んでくるのだった。落ちてゆく葉が、いつものように風に乗って窓辺に佇む2人を掠めていく。たった今も、何も言葉を発しない二人をからかうようにレモン色の葉は頬に触れて床に落ちていく。
レモン色。女王陛下の部屋に押し入って、どうするつもりなのか。袋小路に迷い込んで、入ったが最後出られなくなる。部屋が汚くなるから葉が入るのなど嫌だろうに、アンジェリークがこれを嫌がった事が果たしてあっただろうか。
睡蓮の淡いレモン色。名を知らぬ木のレモン色。同じ系統の色に囲まれて、果物のレモンの香りまでもが鼻に届いてきそうだった。
そうして、どれだけ二人は沈黙していただろうか。アンジェリークがふと、ぽつりとまるで独り言のように呟いた。
「――これからも永遠に、私の傍にいてくれる?」
沁みていく。アンジェリークの言葉がオリヴィエの心の底の底へと。
何度も脳内で反芻しては、その言葉を我が物としたオリヴィエは、全てを了承して小さく頷いた。彼女の言いたいただひとつの事。自分はそれを手に入れたような気がする。具体的に何、という話なのではない。ひどく抽象的で、しかしそれゆえに事実は単純だ。
再び目を閉じれば、そこにはレモン色が見えた。風は再び行き場を失い、この執務室へと迷い込んで来る。レモン色の風。オリヴィエにも、それは不快ではない。
「あんたが嫌になるくらい、ずっとあんたの傍にいてあげる」
永遠に。気の遠くなる程の長い年月を。
それからの二人は何も喋る事無く、ただ外のレモン色を見つめ続けていた。
*
その日の夕方、今度はロザリアに呼び出されたオリヴィエ。ロザリアの執務室にまで出向いてみれば、そこには秀麗な女王補佐官が机に向かっていた。この時間でも真面目に仕事をしているらしい。何処かの女王とは大違いだ。
ロザリアは顔を上げると、射抜くようなきつい視線でオリヴィエを捉えた。本人にその気はないのだろうが、オリヴィエにとっては女王と恋仲にある事も助けて妙に責められているような錯覚を覚える。
「悪いわね、こんな時間に」
「気にしないでよ。…何か話が、あるんでしょ」
「…アンジェリークから何か聞いているの?」
いや、と静かに手を振って意志を伝えた。言葉がどうこうではないのだ。感覚としてそれを認めた、としか言いようが無い。
「私にもよく分かんないんだけどね。でも、何となくそういう気がして。直感っていうのかな、」
「直感なんて、オリヴィエらしいわ…」
楚々と微笑む美人に、どう返していいのか分からずオリヴィエは曖昧に濁した。
感覚が鋭いというのも、時には短所でしかない。その感覚が無ければ、先のアンジェリークの発言も字義通りに認めたに違いないのに、オリヴィエにはその奥にある意味までも捉えてしまう。ロザリアの元になど、本当は来る必要が無いぐらい理解しているのだ。
それでもここに来たのは。本当は多分、それを認めたくないのだ。分かりたくない、誰かに冗談だと飛ばしてほしいからここに来たのだ。ロザリアにオリヴィエの仮説の全てを否定してほしくて。
まだレモン色を視界の端に留めていたい。まだ見ていたい、あの芸術を。レモン色が迷い込むするあの小さな世界を、自分は好いているのだ。
けれど。
ロザリアの口から聞こえてきたのは、正に危惧していたそれで。拒絶するつもりで咄嗟に閉じた瞼の裏に、女王の執務室で見たのと同じレモン色が掠めた。
レモン色。風に乗って運ばれてくるから、まるで風こそがレモン色なのだと思えたものだった。それも全て、消えていく。それら全てが、もう見る事の叶わない景色。
ロザリアから真実を聞かされても、オリヴィエは驚かなかった。ロザリアからの言葉に落胆していたとしても、それらは全て女王の執務室であの言葉を聞かされた瞬間の方が、余程堪えた。永遠に。そんなものの数え方は、何処にも無い。
アンジェリークはどういうつもりで永遠だなんて言葉を持ち出したのか。そう言えば、オリヴィエは理解するだろうと考えてでもいたのか。だとすれば、自分が仕え、また一方で愛していた女王陛下はあまりにも残酷だ。
オリヴィエは口の端に痛みを滲ませて、ようやくロザリアにこう告げたのだった。
「知っていたよ。気付いていたよ。あの子が永遠を呟きながら、さよならを告げてた事はね。それで気付く私も私だけど。あまりにも聡い自分が、時々嫌になるよ。それにしたって――守護聖交代だなんて、無様なもんだね」
おしまい
|