自分と違う体温。自分より、ずっと高くて。
ふと覗く激情。何か大きな存在に巻き込まれるような。
手放してしまった正気。大きな流れにただ身をまかせていた。
……あれは、そういう夜だった。
*
ヴィクトールの隣でもぞもぞと動きながら、アンジェリークはまだ昨夜の余韻に浸っていた。
ふわふわ。
まだ完全に覚醒する前。太陽が出たばかり。
ヴィクトールの腕に絡みつく。ヴィクトールの起き出す気配はない。
ふと涙の出そうな自分を自覚する。
この人は、優しい。それが時折辛い時がある。
彼の優しさは何かを隠しているようにも見えるから。
彼の胸元の、大きな傷が目に止まる。
これはいつかの救助活動の折りに負ってしまった傷なのだと聞かされていた。
傷を、負って。ぼろぼろになって前に進んだけれど。
それでも部下は、助からなかったと。
それから彼は何度でも痛みと後悔を繰り返している事を。
癒してあげたいと、心からそう思っている。
役に立ちたい。この人の。
そんなに深い傷ならば、そばにいて緩やかに傷を癒してあげたいと。
けれどヴィクトールはいつも一番重要なところでアンジェリークの手助けを拒むのだ。
傷を、見せようとはしない彼。
思い出を、話そうとはしない彼。
彼の中でその出来事は風化してはいないのだ。
そしてアンジェリークはそれには介入できない。
それをただもどかしく思い続ける日々。
どうしたら、助けてあげられるだろう。
このままでは永久に彼は救われない。
いくらでも後悔するのも良いだろう、けれどもそれでは人は前進出来ないのだ。
どこかで、区切りをつけて。
それは痛みを伴うだろう、……だが悲しんでいるだけなら誰にだって出来る。
そっ、と。
ヴィクトールの胸に手を当てた。
そこだけ感触の違う傷をなぞる。
「痛かった、ですよね……」
その事故の時は。自分の傷など、それのもたらす激しい痛みなどどうでも良くて、ただ走った筈だ。
部下たちを助けるために。
自分の命を捨て、彼等を生かすためにヴィクトールは走って。
……でも。助かったのは、彼だけ。
痛んだのはヴィクトールの心臓、でもそれを思うといつもアンジェリークの心も痛いのだった。
助けて、あげたい。守ってあげられたら。
「……ち、」
「え?」
ふいに、肩越しにかかる声。
「ヴィクトール様、起きて……」
「……お前たち、」
びく、と自分の体が震えるのが分かった。
慌てて起き出すと、そこには眉を顰めたままうなされるヴィクトールの姿があった。
額に浮かぶのは脂汗。
今でもなおうなされる程。それ程までに罪悪感を感じ続けているのだろうか?
「……すまない」
ヴィクトールの顔の汗を拭い取るために伸ばされたアンジェリークの指先が止まった。
夢を、見ているのか。
あの時の惨劇は鮮明なまま。
どんなに力があったって。
自分は、無力だ。
女王だと褒め称えられても。人ひとり助ける事が出来ない。
アンジェリークはヴィクトールの胸に突っ伏すと、その傷痕の上に涙を零した。
あなたは救われない。
あなたを助けてあげられない。こんなに、近くにいたって。
あなたの傷は、癒えない。
おしまい
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