99.ただ、君を待つ


「…はい、私は女王になる事を選びます」
 答えはいつだってひとつ。
 ずっと前から、その気持ちでオーブハンターとして動いてきた。その時からこうなる事は分かっていた。覚悟の上で今まで生きてきたのだ。
 今が選択の時。

 ちらり、と視界の端に誰かの影が映る。
 黄色い髪の、高い背の人。視界に入るだけで、どうしようもなく安心してしまう人。
 ジェイドさん。
 呼びかける。けれどもその声は、もう届かない。
 アンジェリークは女王になる事を選んでしまったのだ。
 みんなを助けたい気持ちがある。ジェイドの傍にいたいのも本当だが、この揺らぎ変わっていくアルカディアには手綱を持つ人間が必要だった。
 自分に本当にそんな大きな仕事が出来るかは分からない。そうはいっても、アンジェリークを女王にと望む人の期待を振り払う事もアンジェリークには出来そうに無かった。
 ニクスの熱の篭った視線を。ヒュウガがしてくれた手の甲への口付けを。女王としてのアンジェリークに望まれるものが何なのか、自分は理解していた筈だった。
 だから選んだのだ。愛する人と共にいる未来でなく、女王として生きる未来を。
 …そうだ、選んだ筈だった。

「ごめん、なさい」
 大好きなのに。いつも、答えられないでいた。
 ふいに涙が頬を伝った。大事な事を、何一つジェイドに伝えていない。愛していると、どうして離れる前に言えなかったのだろう。機会はいつでもあった筈なのに。
 愛しているよ、ずっと傍にいて君を守るから。あの人は何度だってそう言っていたのに。どうして頷いて恥ずかしがるばかりで自分もそうなのだと伝えられなかったのだろう。
 今更だけれど。
 手を伸ばしてみても。徐々に自分自身が地表から離れていくのが分かった。手を触れられない、直前まで隣にいた筈のジェイドに触れられないのだ。
「…ジェイドさん」
 これから何度その名前を呼んだら、切ない気持ちから解放されるだろうか。
 そんな日は、永遠に来ないのかもしれない。



 アンジェリークが女王となってから、宇宙の時間で1ヶ月が経った。
 アルカディアでは既に数10年が経っている計算になる。レインやニクスやヒュウガは、おそらくはもう生きてはいまい。
 ジェイドはどうだろうか。ふとした折にそんな事を考えている自分に気がついて、嫌気が差した。
 一体いつまで自分は拘泥し続けるつもりなのか。願っても祈っても何にもならない事について、一体どのくらいこだわり続ければ諦められるのだろうか?
 大体、ジェイドならどうだろうという推察自体彼に対して失礼だ。彼は誰より自分が人間でない事実から目を逸らしたがっていたというのに。機械なら、ずっと生き続けるから。そんな想像はしたところで無意味なのだし、それは目の前にいないとはいえ彼を傷付ける思想に違いなかった。
<女王よ…、どうかなされたのか>
 宇宙意志、いやエルヴィンは猫の形を取るとそっとアンジェリークに擦り寄った。
 そのふわふわとした猫の感触を確かめながら、アンジェリークはぼんやりと考え込んでいた。
「ううん。何でもないの」
<何でも、という顔には見えぬ>
「何でもないわ。本当よ」
<彼の事を、考えていたのか>
 誰よりも、おそらくジェイドよりも近くにいただろうエルヴィンにとってすれば、アンジェリークの心を読む事など造作も無い。
 ぎくり、と反応しかける自分の心に嘘を吐きながら、アンジェリークは言葉を繋いだ。
「違う、わ」
 祈っても。彼はここへは来られない。そして自分があの地へ戻る事も。
 それなら肯定する事に何の意味があるだろうか。その度幾度も思い出しては傷つくのは自分だ。分からない振りが出来るのなら、そうした方がいいに決まっている。
 けれど…。
<彼の事が気になるのか>
「…」
 今度は、否定しなかった。出来なかった。もう、自分の心にもエルヴィンにも、嘘をつくのは限界だった。
「そうよ、気になってる。姿が見たいって、思ってる。…だけどそんなの無意味よ」
<あなたは一体どうしたいのか>
 猫の口から深いため息が零れた。わけが分からない、とその口調が言っている。
「私にも分からないの…」
 本当の事だった。自分は一体何を迷っているのだろう。生きているのかもしれない。けれど、生きていないかもしれない。自分をどうさせたいのか、アンジェリーク自身にもまるで理解出来なかった。
<見られれば、良いのか?>
 エルヴィンはアンジェリークの膝で甘えながら、そんな事を言う。
「見る、って…」
<彼の姿を。それなら陛下は先へ進めるのか?>
「…そんな事が、あなたには出来るの?」
<他愛ない事だ。…ただ、彼が生きている保障はしない>
 それは最初から分かっていた事だった。彼は人間ではないから、無限の時を生きるかもしれない。それは逆に言えば壊れてしまえば他の誰にも彼を直す事は出来ないのだ。無限か、あるいは一瞬か。アンジェリークはどちらが見えてもいいようにも唇を噛み覚悟を決めた。
「そうね…、見るわ。お願い、私にそれを見せて。それが終わったなら、ちゃんといつも通り仕事をするから」
 見たら、これで終わりにしよう。そう思った。何度でも後悔はするだろう、それでもこれで仕舞いにするのだと。いつまでも立ち止まってはいられないのだ。
「…お願い、エルヴィン」
<了解した>
 自分の体がふわり、と宙に浮かんだ。光球が自分の周りを巡っている。耳元でエルヴィンが囁く。
<これであなたが変わらず女王として在り続けるのなら、私はあなたに最大限協力しよう>
 目の奥に、次第に見慣れないものが写り始めた…。

 大きな木の下に、男が座りこんでいる。木の幹に寄りかかり、普段は柔和に見せているのだろう瞳は今は閉じられている。
 起き出す気配は無い。
 すっかり深い眠りに入ってしまったのか。すやすやという音までも聞こえてきそうだった。男は辺りに気を配る事もやめてただただ安らかな眠りについている。
 辺りは穏やかな気候のようだった。時折涼しげな風が青年の金髪を揺らした。
 それでも、彼は目覚めない。

 生きていた。湧き上がる気持ちに涙が出そうだった。
 その時の気持ちは、アンジェリークには上手く説明がつかない。やはり生きていたか、という気持ちもある。ジャスパー・ドールとしての宿命に、とうとう彼は逆らえなかったかという思いもある。ジェイド以外のオーブハンターが生きる事を止めても、彼一人だけは死ぬ事を許されないのだ。
 あるいは、自分の女王としての期間が終われば。そんな想像がふいに首をもたげて、アンジェリークはぞっとした。今一体自分は何を考えたのだろう? 望んで王位に就いたのではなかったのか。これではまるで、一刻も早く地上に戻りたいと願っているかのようだ。
 地上に戻り、ただのアンジェリークとなったその日に、例えばジェイドの元へ行ったなら。彼は抱きとめてくれるだろうか。彼は微笑んでくれるのだろうか。彼はきっと、その日まで生きているだろう。あるいは、と想像したのだ。アンジェリークは自分を責めた。
 例えジェイドが生きていたとしても、自分の事などとうに忘れているだろう。在位期間はまだ長い。ジェイドはアンジェリークでなく他の誰かと幸せになるだろう。歯噛みする。アンジェリークでなくとも、彼の事を思いやり、分かってあげられる女性は他にもいる。自分だけじゃない。ジェイドにしてみたって、遠くにいる存在も確認できない女王よりも、近くにいる普通の女の子を選ぶだろう。分かりきった事だった。
 こんな事なら、女王など選ぶのではなかった。
 今になって気付くのだ。彼の傍にいる事を、選んでいたら良かったと。この世の中が、例えどうなっても彼と共に生きる道を選んでいたら、と。
 彼は生きていた。姿が見れた。それは間違いなく嬉しかったのだけれど。わけの分からない気持ちがアンジェリークを苛むのだった。

 今、女王になる事を選んでから初めて、アンジェリークは後悔をしたのだった。



 エルヴィンとは、前の一件以来あまり話さなくなった。エルヴィンが、あのビジョンを見せた事を後悔しているのは火を見るよりも明らかだった。そしてまたアンジェリーク自身もあの映像を見た事を後悔していた。
 見なければ。きっと永遠にアンジェリークは女王という地位に疑問を抱く事無しに椅子に座っていただろう。見てしまったから。帰りたい、という思いが生まれそれは徐々にアンジェリークの心を侵食していく。帰っても、きっとアンジェリークの隣には誰もいないのだろうけれど。ジェイドはアンジェリークの目を、きっと見ないだろうけれど。中途半端に映像を見た分、苦しみも大きかった。
 あの人の声が、聞きたかった。あの映像は今にも動き出して目を開けそうな気配がしていた。アンジェリークの脳内で、あの映像は何度でも繰り返された。現実では有り得なかったその続きも。彼は目を開けるのだ。そしてこちらの存在に気が付いて、微笑を浮かべる。そしてアンジェリークの手を軽く引っ張ると、自分の胸の中に満足げに抱き締めるのだった。
 その感触までもありありと想像して、アンジェリークは気が滅入るのを感じた。仕事は手に付かない。あんな映像は、見るのではなかった。
 見れば、きっと諦められると思っていた。墓が現れて、それにはジェイドと刻まれているのだと信じていたのだ。違っていた。
 諦めるために映像を見たのだった。それが今や、余計に諦められなくなっている。
 罪悪感を感じていた。ジェイドはきっと、自分が振られたのだと感じている事だろう。そうではない、それは誤解だと伝えたかった。今でも在るこの気持ちがその証明だと。説明する事は叶わない。失恋の果てに、ジェイドは誰か他の人と幸せになるだろう。
 耐えられない。だんだん正気を保てなくなる。そんなのは止めて、と叫びたくなるのも何度もこらえた。ジェイドを幸せに出来るのは自分だけだと思っていたのに。誰か他の人と一緒にいるジェイドなど、見たくない。
 帰りたい。彼の元へ戻りたかった。



<陛下>
 しずしずと、エルヴィンはこちらに目を向け語り始めた。
「なあに」
<もう、終わりにしないか>
「終わり…、って」
<私はあなたにもう一度だけあのビジョンを見せよう。だからもう…これで仕舞いにしよう。そうだ、終わりだ。その男の事を考えるのは、もう止せ>
 ぽかん…、と口を開いたまま、アンジェリークはエルヴィンの言葉に耳を傾ける。一体彼は何を言い出すのか。
<見るがいい。女王よ>
 自分の周りにあの時と同じ光球が浮かぶのを見て、アンジェリークは慌ててその場から離脱しようとした。
「い…嫌よ、エルヴィン! 私は嫌。見ないから、諦めなくていいと言って」
<苦しむのは、あなただ>
「それでもいいの! それでもいいけど、諦めろなんて言わないで…っ」
 このまま二度と会えなくても。想っているのは、辛いけど。それは各人の自由たるべきではないのか。それはアンジェリークの自由だ。例え二度と彼が自分のために微笑まなくても、自分は彼の事を想い続けていたいのだ。
<あなたが苦しんでいるのは私も辛い。だから、止めてほしいんだ。その男の事を想うのは>
 分かっている。自分が苦しむ事でエルヴィンにも迷惑を、心配をかけている。分かっている。けれど、諦める事は不可能だった。
 アンジェリークはエルヴィンから離れると、喚いた。今まで誰にも言った事の無い真実を。

「ジェイドさんが好きなの! だから、諦められない!」

 ジェイドにだって、きちんと伝えた事は無かった。
 ひゅっ、とエルヴィンが低く息を吸う音が聞こえた。もう終わりだと、どこかで感じた。女王は誰か特定のひとりを愛してはいけないと聞く。自分はその禁忌を破ってしまったのだ。自分は罰を受けるだろう。それは死か、あるいは。
 ふらふらと。エルヴィンはアンジェリークに近づいた。びくり、とアンジェリークが身を竦ませるのにも、無反応で。
<やはり、あなたを女王にしたのは間違いだった…>
「え…」
<あなたは、人の子だ。アンジェリーク>
 ずん、とその言葉はアンジェリークの胸に重く響いた。自分の思いを貫く事で、エルヴィンの期待を裏切ってしまった。傷付けてしまったのだ。やはり自分の行くべき道は人としての道で、女王になるなど分不相応な身分に落ち着ける筈も無かった。申し訳なく思う。何度裏切る事になっても、自分は自分の思いにもう嘘はつけないけれど。
「ごめんね、エルヴィン…」
<謝罪は、いらぬ>
 エルヴィンは目を閉じて、しばし物思いに耽った。
<前から考えていた事だ。あなたには地上での暮らしの方が相応しいのを、私は知っていたのに。ひとりでは寂しいからと、攫うようにあなたを連れて来た>
「違うわ…。私が望んでここに来たのよ」
<違わない。あなたが「はい」としか言えないような状況を作り、あなたをここに連れて来たのだ…しかし、それは間違いだった>
「エルヴィン…」
<人間に、戻るといい。あの者が今もいるかどうか、私には分からぬけれど…。ここよりも希望に溢れた地上に…アルカディアに帰るがいい>
「え…」
 エルヴィンの信じられない一言に、アンジェリークは口を開いた。
「待って。帰るって…、そんな事が…」
<帰りたいか?>
 エルヴィンからの本質を突いた質問に、アンジェリークは一瞬躊躇ったのち意志を告げた。
「…うん」
<そうか>
 にこ、と。猫は笑わないのに、どうしてそんなイメージがアンジェリークの頭の中に浮かんだ。
<どうか幸せに、私の女王陛下よ。あなたには地上が相応しい>
「エルヴィン…本当に、ごめんね」
 エルヴィンに背を向けると、アンジェリークは走り出した。エルヴィンがくれた選択を、無駄にしたくは無かった。だから、少しでも早く彼に会えるようにと走った。再びエルヴィンを孤独にしてしまう。世界でひとりぼっちにしてしまう。それでも、走る事は止められなかった。
 女王という地位を捨ててでも。ただのアンジェリークに戻っても。構わないのだ。
 何もかもを捨てて彼の元へと、アンジェリークは走り始めた。
 声が聞こえた気がした。一瞬だけ振り返り、もう見えないエルヴィンのいた方へと視線を巡らせる。声は、こう言っているように聞こえた。

<欲しいのは、謝罪ではない…>



 昼下がりに庭で。ぼんやりと本を開いたまま、木立の中に隠れるようにして青年が座り込んでいた。
 その本の、何度も何度も同じ箇所を読んだ。その文を覚えてしまう程に、繰り返ししつこいくらい読み込んだ。
 彼の両手の上に開かれた絵本には、こういう一節がある。それを彼は際限なく読んでいるのだった。
『女王は、何百年という単位で交代の時期が来ます。その度に宇宙は再生され平和な女王王の治世は続いてゆくのです』
「おい、ジェイド」
 ふいに呼びかけられた青年は、ぱたんとその絵本を閉じると赤毛の少年の方へと視線を向けた。
「遅かったね、レイン」
「仕方ないだろ。こっちだってレポートの提出があるんだ。それで、俺を呼んだ理由は何だ?」
 大学生に戻ったレインは今は大学の院生として生活しているらしい。ジェイドはその事を思い出し微笑んだ。学校に通った事のない自分にはよく分からないが、何でもレポートとかいうのが大変らしい。大変だと言う割には毎日を楽しそうに過ごしている彼を見て、自然といいなと口元が綻んでしまう。
 苛々するように、作った拳で殴る真似をするレイン。それはジェイドが慌てて開いた左手の中に吸い込まれる。
「怒らないで。まぁ聞いてよ。…実は、やってほしい事があってさ」
「言ってみろよ」
 にこ、と微笑んで作り笑いは消さないままで、ジェイドは言葉を吐き出した。
「俺の機能を、止めてほしいんだ」
 レインは、驚かなかった。ただその深い色の瞳でじっとジェイドを見るばかりで。驚き喚くだろうと思っていたジェイドは肩透かしを食らった気分だった。
「どうかな?」
「…本気なのか」
 レインの口から漏れたのは嫌に冷静な発言だった。うん、とジェイドは静かに肯定する。
「レインにしか頼めないから、こうやってお願いしてるんだ」
「お前…」
 何かを言おうとするレインを遮り、ジェイドは歌うように続けた。
「ヒュウガがね、教えてくれたよ。女王はずっと同じ人じゃないんだって。数百年に1回行われる女王交代という儀式を行って女王が代わる事によってこの世界は平和に続いていくんだって」
 考えるのはアンジェリークの事だった。あの子の微笑を、何度だって思い出して、その瞼に焼き付けようとしている。浮かんでは消える映像。海岸に寄せては返す波のように、出現しては消滅し。
「アンジェもそうなのかなと思ってね」
「その数百年後にあいつが人間に戻れるって事か?」
「そう、ヒュウガの話だとね。ニクスに貸してもらったこの絵本にも、同じような描写があった。間違いないと思うよ」
「それで、お前は? それとお前の機能を止めるのと、どう関係があるんだ」
 分かっているくせに。レインは自分自身を追い詰めるかのように尋ねてくる。本当は聡い彼の事だ、ジェイドの意図はとっくに理解しているだろう。言いたくない、自分の口からそれを真実にしたくない、だからジェイドに言わせようとしているのだ。
「アンジェを待つよ。俺は俺自身を止めて、アンジェが人間に戻れるその日を待とうと思う」
 レインはきっとジェイドを睨んだ。何か、おそらくは罵倒するために開かれた口。レインはしかし罵りかけてその単語を止めた。
「馬鹿…、だ。お前は」
「だって、仕方ない。これ以外に、俺はどうしていいか分からなかったんだ。…馬鹿だから」
 ある程度の罵倒ならば覚悟は出来ていた。けれどもレインの口から漏れたのはその一言きり。ジェイドはさらに言い募った。
「分かっていた? 俺がこうやって提案するって事」
「どうだかな。…予感はしてたよ」
 ふう、と息をついてみせる。肩を竦めて。
「アンジェがお前の事なんか忘れてるかもしれないって事は、勿論考えに入れてるよな?」
 ジェイドは静かに肯定した。
 彼女が地上に戻っても。ジェイドの事など忘れ去り、そのまま誰かと幸せになってしまうかもしれない。別れてしまったあの日のまま、二度と二人の未来が交錯しない可能性は、勿論頭の中に入れているつもりだ。
「分かっているよ。それでも俺には、こうする事しか出来ない。アンジェのいない世界で、だらだら生きててもしょうがないんだ」
 それでも願いたい。祈りたい。このままひとりきりで長い時間を生き続けるくらいなら、祈ったまま機能を止めてみて、アンジェリークに再会するその可能性にかけてみたいのだ。
 自分がジャスパー・ドールに生まれてきた事に、意味を見つけたいのだ。
 このまま二度と会えなくても。例えアンジェリークが自分の事など忘れきってしまっていても。そうだ、彼女が自分の事を忘れてしまっているのなら、まさしく生きている意味が無いのだ。
「冷たい事を言うようで、悪いとは思ってる。…一応止めてるつもりなんだぜ、これでも」
「うん。分かってる。レインは優しいから」
 本心を見せたがらない人だけれど、今くらい彼の心を読める。仲間をもう一人失うのなど、彼にとっては耐えられない事に違いない。ジェイドだって出来る事ならレインに頼みたくは無かった。しかしジェイドのメンテナンスを長くしてきたレインしか、自分は信用できないし、レインにしかその技術は無いであろう。
 ジェイドの機能を止める技術は。
「あまり長く機能を停止したままにすると、もう再起動出来なくなる可能性にも、ちゃんと気付いてるよな?」
「分かってる」
 これは賭けなのだ。アンジェリークが自分の元に戻ってきたところで、自分が再起動出来なければ意味は無い。
 アンジェリークが戻ってきた事を、自分自身が認識出来なければ意味が無いのだ。
 彼女と過ごした日々を、思い出せ。とジェイドは念じた。彼女といる時、何度だって窮地で奇跡が起きた事を。何度だって再起動出来た事を。彼女を想えば、強くなれる事を。
「いつ、やればいい?」
「今すぐに。もう、みんなには言ってあるから」
「…俺の知らないところで、最後の挨拶をみんなにしちまったのか」
「…ごめん、レイン」
 申し訳ない気持ちで、ジェイドはいっぱいになる。
「君に頼む最後のお願いがこんなものになってしまったのを、申し訳なく思ってるよ…ごめん」
 こんな湿っぽい別れなど、どちらも望んではいないのに。出来れば最後にレインの笑顔が見たかったけれど。
これが今生の別れ。そう思うと笑顔など浮かばなかった。
 レインがそっと手を伸ばした。ジェイドの背に手を回す。
 背中にある制御板をいじるつもりなのだ。彼の手に全てを委ね、ジェイドはゆっくりと目を閉じた。
 意識の、とても遠いところで誰かの声が聞こえた。それは電気信号になってジェイドの回路の奥にまで届くけれど、彼はもはやその意味を認められなくなっていた。

「ごめんじゃなくてありがとうだろうが、この馬鹿」



 大きな木の下に、男が座りこんでいる。木の幹に寄りかかり、普段は柔和に見せているのだろう瞳は今は閉じられている。
 起き出す気配は無い。
 すっかり深い眠りに入ってしまったのか。すやすやという音までも聞こえてきそうだった。男は辺りに気を配る事もやめてただただ安らかな眠りについている。
 辺りは穏やかな気候のようだった。時折涼しげな風が青年の金髪を揺らした。
 それでも、彼は目覚めない。ぴくりとも、動かない。

 遠くから青い髪をした少女が駆けてくる。少女は迷う事無く眠りに就いた青年に駆け寄った。息が切れている。呼吸をするのも苦しそうに、しかしそんな事実には構わないといった様子で青年の名を呼んだ。
「ジェイドさん!」
 …反応は無い。随分長い事走って、とうとう青年の元に辿り着くと、少女は彼の肩を少しだけ揺らし、そのむき出しの二の腕があまりに冷たいのに気が付いた。
 少女は目に見えて蒼白になる。
「…ジェイドさん! 目を、開けて」
 嫌、と叫んでみせる。懇願する。
 それでも彼は目覚めない。
「私、やっと戻れたのよ。お願い、目を開けて下さい!」
 もはや、血の通わない体。
 間に合わなかったの、と少女は突っ伏した。
 間に合わなかった。彼に再び会う為に、たくさんの人を不幸にして、それでも彼に会う事を望んだから戻ってきたのに。
 急いで来たけれど。彼の寿命に、届かなかったのだ。

 既に、彼は活動を停止していた。
 ただの塊。
 人間ですら、無い。

 そうだ、と少女は呟いた。あの時見たビジョン。あれも本当は、眠っていたのではなく、あの時点で既に全ては終わっていたのかもしれない。
 早とちりをして、ここまでやってきて。そうして全てに絶望したのだ。
 彼を取り戻すために戻ってきて、本当の意味で彼を失ってしまったのだ。
「嫌、ジェイドさん…ッ!」
 彼の腕を掴むと、がくがくと揺さぶった。
 起きて、起きてと何度だって呪文のように唱える。
 それでも目覚めない。
 少女の目から涙が溢れた。
「行かないで…!」
 ひとしきり泣いて。冷たい腕をひたすらに温め続けて。
 こんな事なら、と少女は呟き続けていた。
 青年はただ、気味の悪いくらい無抵抗だった。

 しばらくそうしていただろうか。
 少女はしばし何かを考えるように目を閉じていたが、急に目を開いた。
 無論、目は赤くなり腫れている。
 青年の隣に身を寄せて、肩に寄りかかった。熱は感じられない。
「ねえ、ジェイドさん…?」
 呟く声は風に乗って。緩やかに彼の耳に届く事を期待した。
「今更だけど、私、戻ってこれました。…さっきは取り乱しちゃってごめんなさい」
 ふと、また涙が流れそうになり、右手でぐいと目元を拭った。
「ただいま、って言うから、おかえり、って、言って…?」
 何も叶わないから。間に合わなかったのなら。
 ただ、「ただいま」と言う事だけは、伝えたいのだ。

 少女は静かに目を閉じる。
 熱い瞼。湿気を纏った風を冷たく感じた。

「…おかえり、」

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。
 慌てて目を開けて、そして眼前に映る世界が先程とは全く変貌している事に気が付いた。
「…ジェイド、さん…」
「ごめん。気付かなくて。でも、良かった、君がいなくなる前に起きる事が出来て」
 にこ、と青年は微笑む。ブラウン・アイが瞼の裏に見え隠れする事を、何度も少女は確認した。
「君が近くにいるのが、分かってたよ。でも、長い間自分を止めてたから、なかなか再起動出来なくて」
「ジェイドさん」
 ぼんやりと、ただその名前を繰り返す事しか出来なかった。
「ねえ、今度こそ、約束させて。もう君を離さないって」

 君が、好きだから。

 こくこくと、少女は長い年月分をまとめて頷いてみせた。
 感極まり、言葉は出なかった。もはや、それは不要と言えた。
 やっと、やっとだ。
 永遠とも思える長い時間の果てに、ようやく二人は再会を果たせたのだった。

「…ずっと、君を待っていたよ。アンジェ」


おしまい


■あとがき
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
たくさんの人を不幸にして、それでも巡り合う事を選んだ二人は、一体これからどうなるのでしょうか。
幸せにならなきゃいけない、それだけは確かなのです。
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