「釣り?」
よく晴れて、雲ひとつ無い日曜日。
ARMSも今日の活動は無く、休みである。
ARSM隊員は日曜日は基本的にはメリアブールで待機する事になっている。いつどんな時に指令が下るか分からないため、不用意にヴァレリアシャトーを離れるわけにはいかないのだ。
そういうわけで、ヴァレリアシャトーから離れる事の出来ないものの特にする事のないリルカは朝からメリアブールの宿でうだうだしていた。
そこをアシュレーに呼び止められたのだ。
両手に釣り道具を抱えたアシュレーは、にこにこしながら部屋に入るなり聞いてきたのだった。
「釣り、やらない?」と。
釣りとアシュレーと日曜日とが繋がらなくてリルカは目を白黒させるばかりだ。
「釣りって、何で?」
「いや、久しぶりにやりたくなって」
「アシュレー釣りなんて出来るのぉ?」
明らかに馬鹿にした口調のリルカ。そう言う彼女の釣りの経験はゼロだ。
年下の子に馬鹿にされている事にも気付かず、アシュレーはのほほんと答える。
「これでも昔は結構やってたんだよ」
「ふーん……」
確かに、彼の持つ釣竿はそれなりに使い込まれている跡があった。
メリアブールは海が近いし、趣味が釣りと言っても分かる気がする。とリルカは頷いた。
「やった事無いけど、アシュレーが教えてくれるんなら行ってもいいよ」
「勿論」
「ブラッドは? 誘ったの?」
「いや、あいつは海の生き物には興味が無いからって」
「成る程……」
どのみちどうやって過ごそうかと考えていたところだ。
アーヴィングから休日に指令が下った事など一度もないが、かといってメリアブール地方を離れるわけにもいかない。
要するに、退屈なのだ。
アーヴィングの目を掻い潜り、テレポートジェムを使って故郷に帰れば何かしらやる事はあるけれど、家出娘であるリルカにとって暇だからといって故郷に帰るという選択肢だけは無かった。
そもそもテレポートジェムでシエルジェ自治領に無事に着けるとも思えない。
退屈が無くなるのならばこれ幸い。特にそれがアシュレーであるなら、何処に問題があるだろうか。
あっさりと、リルカは彼の提案に乗る事にした。
「じゃ、行く」
アシュレーといられるなら、やった事のない釣りだって。
その言葉は飲み込み、二人は浜辺へと移動した。
*
「うわぁ、海だーッ!」
シエルジェの海とは違い、メリアブールの海はなんと穏やかな事か。
全く違うものを見るような目でリルカは飽く事も無く海を眺め続けていた。
「そんなに海が珍しいか?」
「だって、シエルジェの海は冷たくて。色も深い紺だし、あんまり『生き物が住んでる』って感じがしないんだよ」
「へえ……」
「でもこっちの海は、あったかいね。綺麗な色した魚もいっぱいいるし。シエルジェの海と全然違うから新鮮」
アシュレーは初めて聞くシエルジェの話に熱心に耳を傾けながら、それでも釣り針に餌をかける作業を止めない。
その流れは確かに熟練したものを感じさせ、リルカは今になってようやく彼の言葉が嘘でなかった事が分かった。
もちろん、始めから彼の言葉を疑う気など無かったのだが。
ふと釣り針につける餌が目に入った。赤い、みみずを小さくしたような生き物がたくさん箱の中に入っている。
「その赤いのが餌なの?」
「あ、うん。リルカはこういうの、気持ち悪くないのか?」
「うーん」
言って、その箱の前でしゃがんで、よくよく観察する。
そのみみずもどきは尺取虫のようにうねうねと動きながらどこかに移動しようとしている。
「わー、うごうごしてる」
その率直な感想にアシュレーは苦笑を漏らした。
「怖くないのか。普通女の子ってこういうの見ると嫌がるかと思ったんだけど」
「確かに気味悪いって言ったらそうだけど。触るのは嫌だけど、見る分には平気だよ」
「リルカは強いな」
「ARMSの一員ですからッ!」
ぐっ、と握りこぶしを作ると、アシュレーは分かってるよと言い屈託なく微笑んだ。そしてリルカに釣竿を手渡した。
そしてふたりで(といっても下準備は全てアシュレーがやったのだが)のんびりと釣りを始めたのだった。
釣り糸を垂らし、あとは適当に動かしながら待つ。それだけの娯楽である。
それだけのくせに、妙に心がはしゃぐのをリルカは覚えた。
にこにこしながら、かつちょっとずつ体をアシュレーの方へとずらしながらリルカは上機嫌だ。
言うまでもないが、もちろんアシュレーはそれには気付かない。
「なんか楽しいね」
「……まだ何も釣れてないのに、もう釣りの楽しさに目覚めたのか?」
「うん。楽しいよ。こうやってぼんやりするのも、いいよね」
本当は頭はフル回転で、ちっともぼんやりしてはいないのだが。
「アシュレーも楽しい?」
リルカはふいに気になって尋ねてみた。
楽しく思っているのが自分ばかりでは、それこそひとりよがりだ。
楽しむのなら、ふたりで。同じ時間と気持ちを共有する事をリルカは望むのだ。
「昔マリナが生餌を嫌がって以来、いつもひとりでやってたから。今日はリルカがいてくれて僕も嬉しいし、楽しいよ」
途端、今まで楽しい思いをしていた事も忘れ、ずき、と心臓の辺りが痛むのが分かった。
その、名前は。と思う。
出来ればこの時には聞きたくなかった。
アシュレーはニブチンだ。今自分が誰といるのか、全然分かってない。
リルカ・エレニアックと一緒にいる以上はマリナ・アイリントンの話なんて。
聞きたく、なかった。
「ひとりじゃないって、いいね」
「そう、だよね」
そう相槌を打つので精一杯だった。
ぐ、と空いた左手を握り締め。リルカは何とか納得しようと努めてみた。
わたしは結局、身代わりなんだ。釣りなんかしたくないッて言うマリナの代わりでしかない。
でも、身代わりでも、いい。
今日のこの時間は、アシュレーはわたしといて楽しいって思ってくれてる。
他の人とじゃなくて、わたしと。
わたしも楽しいって思ってなきゃ、いけない筈だ。
……うん、楽しもう。
リルカは無理矢理作った微笑みで、何とかして話を違う方向に持って行く。
「アシュレー、それじゃあいつもひとりで釣りしてたの?」
「ん? そうだよ」
「誰かと一緒にやるのは初めて?」
「うん。初めてだよ」
「ふーん。そっか、初めてか。ふうん」
先程の彼の言葉で沈みかけていたけれど、すぐに回復。
アシュレーの初めてがわたしなら、嬉しい。
贋物の笑顔は本物に変わる。
「何だよ、寂しい奴とでも言うつもりか?」
「そんなんじゃないよう。……あッ、アシュレー、ちょっ、糸引いてるッ、何か魚がいるッ」
「早ッ!」
突如ぐい、と来た引きにリルカは逃げ腰になる。それを横から何とか支えたのがアシュレーだ。
「しっかり持って、引っ張って。大丈夫」
さり気無く腰に手を回され、こんな非常時でもどきんとするのが分かった。
彼の右手はリルカの釣竿のアシストをしている。それがリルカの右手に被さっていて、余計にリルカはどぎまぎしてしまう。
……多分、アシュレーは全然分かってないんだよね。
ため息混じりに、やっぱりそうなんだろうな、なんて考えて。
腹立ち紛れに、リルカは思い切り力を込めて釣竿を引っ張り上げるのだった。
*
バケツの中のたくさんの魚は、悠々と泳いでいる。
青い背びれが太陽の光に反射してきらきら輝いていた。
「何でリルカばっかり釣れて、僕はさっぱりなんだ……?」
リルカのバケツの中は青い魚でいっぱいだ。魚たちも、どことなく息が出来なくて苦しそうだと、リルカには見えた。
そしてそれとは対照的に、アシュレーのバケツの中は空っぽなのだった。
空っぽで、水さえ入っていないバケツをがらんがらんと音を立てて蹴る。
子供のように悔しがるアシュレーを見つつ。ものすごい優越感を感じて、リルカはほくそえんだ。
「釣りって楽しいねえ」
「ずるいぞ、リルカ」
こういうのをビギナーズラックって言うんだぞ、とアシュレーは大人気無く言う。
全く意に介せず、それよりね……、と切り出した。
「あのね、アシュレー。今度釣りに行く時も、わたしを誘ってね」
「なんだ、そんなに釣りが気に入ったのか」
「うんと……うん、まあね」
確かに釣りも楽しかったんだけど、そうじゃなくてさぁ。
言えない。本当の事は、どうしたってなかなか。
でも、それでもいいじゃないかと思うのだ。
今日は、満足。一緒にいられただけで大満足。
リルカは本当の事を胸にしまい、ただにこりと微笑んでみせるのだった。
リルカの分の荷物もアシュレーは持って、ふたりはメリアブールへと帰っていった。
リルカはアシュレーの空いた左手を、アシュレーはリルカの左手のバケツの中の魚を、それぞれ気にしながら。
おしまい
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