錆のにおい


 何処から間違ったのだろう。
 最近は毎日そんな事を考えている。

 戦災により故郷と親を亡くした自分たち兄妹は悲しむよりも先に生活に苦しむ事になった。年端もゆかぬ少年と少女の組み合わせで、またどちらもが労働するには若すぎるとあらば何処かの仕事場に潜り込める筈も無く、生活は苦しかった。人の家からものを盗む事によってようやく生きる糧を手に入れていたそんな中、声を掛けてきたひとりの男がいた。ひどく優しげな調子で、彼は少年少女に呼びかける。
「君たちは、ここから遙か北にある孤児院を知っているかい?」
 兄妹の面倒を見ようと言ってきたその柔和な顔つきの男を二人は信用し、付いていく事にした。先立つものが無いとはいえ時折店先から食べ物を盗むような生活に、また頼る者のいないこの生活に兄妹は疲れ切っていたのだ。その男が怪しいのには、年嵩の少年は気が付いていた。この世知辛く子供に厳しい世界で、無償で何かを提供してあげようと言ってくる人間に、裏が無い筈が無い。
 しかし、兄妹には既に選択肢は無かった。

 そうして連れて来られたのが「白い孤児院」だった。何の事は無い、生活の保障があるというのはモルモット的な意味でだったのだ。
 繰り返される人体実験の日々。止まらない投薬、悪夢のように続く重い副作用。――あの時確かに彼は嘘は付かなかった、「衣食住は保障される」と言ったその言葉は嘘ではなかった。けれど。投薬のために胃の辺りからじわりと込み上げる吐き気でベッドから起き上がれず、何日も伏せる日々。そうでない日はただ白い服を着た大人の言いなりになるだけ。これが自分だけなら良かった。けれど現実には自分と同じように、いや彼女の方が才を認められたためにずっと重い薬を与えられている妹がいるのだった。
 何処で、道を間違えた。最近兄はそんな事を繰り返し考えている。ただ自分は妹を守りたいだけだったのに。口車に乗ったつもりは無かった。あるいは乗ったとしても妹ひとりなら何とか守れると高をくくっていたのかもしれない。結局は、自分が全て悪かったのだ。
 細くは無いが、妹を守るのにはあまりにも無力な両腕に、自分自身呆れ返る事もこの孤児院に押し込められてから一体何度体験しただろう。大事な妹はまだ子供だが、その唯一の肉親にして保護者の自分もまた、ただの子供なのだ。…
 力が欲しい。せめて、ここを脱出する力さえあれば。しかし現実は能力のある妹を野放しにする程ここの職員は呑気でもないし、またそうであったとしても孤児院辺りの地理に疎い兄妹では逃亡に成功したとしてもすぐに掴まって連れ戻されるのが落ちだろう。兄も馬鹿ではないからそれが分かる。妹が被検体として、こう言っては何だが実績がある以上研究者が妹に今のところ危害を加えようとはしていないのが分かるだけに、自ら死にに行くのが得策ではない事を分かっているつもりだ。
 それでも自由になる事を諦めきれない兄と妹は、時々研究所の庭へと出て行く。庭は外であるが、しかし、外界とは2重、3重に囲まれた金属の柵によって遮断されている。それでも外界を見つめる事だけは出来るのが、ここから何処にも行けない自分たちをあざ笑っているかのようで憎らしい。
 大人たちは言う。金属網を潜り抜けたところで地雷が埋まっている。二番目の金網を越えたところには監視塔があってそこから常に逃亡者がいないよう見張っている。怪しげな挙動を見せるものがあれば直ちに射殺される。その先には猟犬がいてお前たちが逃げようとすれば容赦なく食い殺す。一番最後の金網には電気が走っていて、それに触れれば感電して死ぬ。と。
 何もこれはいたいけな子供たちを震え上がらせるためだけの処置なのではない。兄はそれを知っていた。実験を計画する白い服の大人たちの中にも、無残な人体実験を繰り返す事に抵抗を覚えている、実験に夢中な人間に言わせると「非協力的な人間」がいる。彼等はどうやら一枚岩ではないようなのだ。この過剰なまでの逃亡に対する処置は…彼らをここから逃がさないため。人権の崩壊したこの小さな世界を外に漏らさないため。
 小さな子供たちは何人かの白い服を着た大人たちに支配されている。何人かの白い服を着た大人たちはそれとはまた別の白い服を着た大人たちに支配されている。

 何処から間違ったのだろう。
 最近は毎日そんな事を考えている。



 今日もまた、少年と少女は――クルースニクとユウリィはここに、一番手前の鉄条網へと来ていた。他に人の姿は無い。規律として、モルモットは一番目の鉄条網まで触れる事は許されている。無論だからといってむやみやたらと近付けば一撃の元に粉砕されるのみであるが。兄はただその場に立ち尽くすと、金網に手を掛けた。ぎゅっ、と鉄条網を掴む手に力を込める。金属がきしきしと音を立てる。
 彼ら兄妹が来る前からここにあった鉄条網は、今はもう錆付き変色し、金属特有の嫌な匂いを発していた。天気がいい所為もあり、今日は3番目の鉄条網のその向こうまで見渡す事が出来た。現在、4番目の鉄条網が目下建設中だ。少し前に白い服の男たちが集団で逃亡する事件があったため、対策を強化しているのだ。勿論、彼等はあっという間に見つかり捕縛された。彼らは見せしめのため、この広場で公開処刑された。今も尚、この場所のあちこちに血の光は鈍く輝いたままだ。
 馬鹿な奴らだ。そこまでしなくとも、誰も逃げてなど行かないのに。行くあてなど自分たちには何処にも無い。このまま精神が食い殺されるのを待つだけか。…。それでも。
「兄さん、」
 鉄条網に触れ、一心にその果てを睨み付ける兄に対して何を想像したのか、青くなったユウリィが咄嗟に彼の背中にしがみ付いた。
「わたし、こわい…」
 そこでようやく兄は自分の不審極まりない行動に気が付いた。こちらを見つめる監視者の目が常よりも険しい。右手を鉄条網から離すと、彼はユウリィに向かって柔らかい表情を見せた。
「――怖がらせてすまない。…お前が心配するような事はしないさ」
「本当?」
「本当だ」
 それでも妹の顔は晴れない。
 こんな時、いつでも思うのだ。自分にもっと力があれば。頭脳があれば。ここから逃がす事や、或いはそもそもここに来てしまう事も無かった。自分が無力だったばかりに、これほどまでに妹は苦しんで、悲愴な表情ばかりを浮かべている。最後に妹の満面の笑みを見たのは一体何年前なのだろう。全ては自分が弱いからなのだ。
「…、大丈夫だ、俺がついているから」
「兄さんが、付いていてくれるなら安心ね」
 力を持たぬ、ものの数にもならぬこの身であっても、ユウリィは必死に頼ってくる。縋り付いてくる小さな生き物を見放したりなどしない。永遠に自分たちは一緒だ。ここに来た事がどれほどの間違いであったとしても、きっと生き延びてみせる。妹を真っ当に育ててみせる。地獄で育ったからまともな大人になるのだ、とは、他の誰にも言わせないように。
 自分などどうなってもいい。それでも妹だけは守るのだ。
 決意も新たに、クルースニクは口角を上げた。
「大丈夫だ。お前をきっと、ひとりにはしない」
 クルースニクは鉄条網から左手を離すとゆっくりとユウリィの方に振り向いた。
 そして、錆の匂いのついた手で、彼はユウリィを強く抱き締めた。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
孤児院時代クルユリでした。明らかに途中で脱線した。だってベルリンの壁(die Mauer)の描写が楽しくて…
本物はもっとすごいので、一度調べてみるといいかも。
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