「生きて」という遺言


「クルースニク…ッ、しっかり掴まれッ!」

 がらがらと崩れ落ちる岩場。崩壊は近かった。
 赤毛の少年と。自分とを繋ぐのはARMだけ。

 イルズベイル監獄島。
 その地下にて。
 クルースニク・アートレイデは決意を固め始めていた。
 揺ら揺らと。安定しない自分の足元を、さほど気に留める事無く。
 このARMを離せば、自分はいとも簡単に死んでしまえるのだ。

 赤毛の少年のか細い腕は自分とARMとを支えるので精いっぱいらしく、ぶるぶる震えている。
 その手を離せ、そしてあの子の元へ行け。そう言ってもまるで言う事を聞かない。目の前の問題しか見えない、大局的に物事を見る事の出来ない本物の子供だ。
 今、そんな本物の子供が世界を救おうとしているのだ。どこか滑稽な勇者の有り様に、少しだけ苦笑を洩らす。こんな子供にあの子をまかせて大丈夫なのだろうか。いや、…信用するしかない。きっとこいつならば、あの子を幸せに出来る事を。
 静かに限界を感じている。自分とて、ARMを握っている手が痙攣し始めていた。

 もう、分かっていた。

 自分は助からないだろう。世界を、あの子を救うのは自分ではない。
 最期の瞬間に思い出すのはただあの子の事だ。
 このARMからゆっくりと手を離して、静かに地下に落ちていく自分を想像する。
 …強くなっても、本質はそうは変わらない。自分が助からなかったと知って、あの子は泣くだろうか。
 ほんのひとときだけ、自分の事を考えて身を案じてくれればそれで満足なのだ。
 涙を拭いたら、自分の事など忘れてしまって構わない。彼女の記憶から、自分などいなくなってしまった方が彼女は幸せになれるだろう。自分の事は、孤児院の記憶と同じように彼女の心の闇に繋がっていく。闇など持たなくていい。その分も全部引き受けて、自分は落下してゆくのだ。
 彼女は光そのもの。闇たる自分が、傍にいる事は叶わない。それなら彼女が密かに抱える闇ごと消えるまで。
 命をかけて貫く意地がある、と彼女と約束した。それが、これだ。ここで証明するのだ。意地を。自分は影となり、彼女をどんな存在よりもこれから守っていくと。
 もうつらい目には、遭わせたくないから。
 どうかあの子を幸せに。その役目は自分には過ぎた仕事だ。ひたすらに望むのだ。彼女が幸せになれば、違う世界で自分もまた幸せになれる事を。

 ただ呟く。願いはひとつだ。

「…て、」
「え、…何、クルースニクッ」

 ふ、と微笑を浮かべて。
 クルースニクはゆっくりとARMから手を離してみせるのだった。

「クルースニク…ッ!」

 赤毛の少年が、あらん限りの声量で叫ぶ。
 …クルースニクにはもう、届かなかったけれど。

「うわああああぁッ…!」



 ぶちり。
 何かが派手に破けた音がして、ユウリィは慌てて立ち止まった。
 先頭を走っていたユウリィが止まれば、あとの二人も自然と従う。ラクウェルが不審気に問うた。

「どうした?」
「いえ…あの…」

 その瞬間に。何かが壊れるような感覚が走ったんです。
 鼓膜に焼き付くような鈍い音とは裏腹に、ユウリィはその音が何からもたらされたのか上手く説明できない。口元に手を当てて考える。急ぐべきだったが、走り詰めだった所為もあり足が次の一歩を踏み出すのを拒んでいた。それにどうしてかひどく気が進まなかった。ざわつく予感。これ以上先は、行かない方が良い、と訴えかけるような。
 ふと、視界に青いものが映った。2人も気付いたようで、「あ」と声を上げる。
 リボンが。髪を結っていたリボンがはらりと落ちていくところだった。いつの間にか破けてしまったらしい。先ほどの音はこういう事かと納得しかけて、その不吉さに眉を顰めた。
 どうしてこのタイミングで。不運極まりない。どうして、とこぼす。
 またもざわつく予感。この2人は気付かないのだろうか。どうしてこんなに嫌な考えに、自分は満ちているのだろう。
 自分の中から何かが抜けていくような、この空虚さを一体何と呼んだら良いのだろう。自分の半身が脱落していくような。心臓が徐々に冷えていくこのイメージを。先に進みたくない、きっとそこには心臓を冷えさせる何かがあるのだ。
 地面に落ちたリボンの。青さがひどく目に沁みた。それは痛い程に。
 意地を。約束を破りたがる兄のために、ユウリィが頼んだ事はひとつだけだった。
 オルゴールを渡すまでは、いなくならないでと。
 意地があるのなら、それを。今度こそ約束を守ってと。
 それなら、と思う。服の端をぎゅ、と掴んで自分に言い聞かせる。
 この先で、例えば何を見ても。信じ続けると。彼の未来を。オルゴールを渡してもらうまではきっと、と。
 それが自分の、命をかけた意地なのだ。彼が命をかけて今先へ進もうとしているのと同じに。自分も命をかけて、今度こそ彼を信じたい。
 それが意地なのだ。
 でも、ふと、思わずにはいられない。想像せずにはいられないのだ。

 自分の中から大切な何かが静かに消えていく。
 例えばそれは。

「…兄さん」

 この声も、全てが虚空に飲み込まれていく。



 ユウリィ、生きるんだ。この少年とともに。
 どんなに俺が傍にいてやりたいか、お前には分からないだろう。
 だが俺がお前の傍にいる事は許されないのだ。

 ユウリィ、…オルゴールを。
 俺の意地の象徴を、受け取ってほしいんだ。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
書いてる私が、つらかったです…
あの情景が、浮かんでは浮かんでは(消えない)。心が痛みます…
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