それは、夜9時過ぎ。
自室にて、さして面白くもない本を読んでいたクルースニクはすぐにその悲鳴に気付いた。
「きゃああああぁぁぁッ!」
浴室、今ユウリィがシャワーを浴びている浴室から悲鳴は聞こえた。
「ユウリィ、……何かあったのか?!」
ただ捲っていただけに等しい本を閉じ、立ち上がる。
彼女に何か起こったのか。と足早に浴室に向かいながら考えを巡らす。
あれは確かにユウリィの声だった。きっと、俺に助けを求めているのだ。
頭の中の想像は浴室に向かうに連れて、ますます悪くなっていく。
まさか、覗きが出たのでは。
まさか、その変態がユウリィにおかしな事をしたのでは。
まさか、……。
頭の中が真っ白になる。
あれだけの美少女だから、常々気を付けなければとは思っていたが、とうとう来るべき時が来てしまった。
もっと普段から守ってやらなければ、ユウリィには今ひとつそういうところに鈍いところがあるからと思っていたが、その対処が足りなかった事を思い知らされる。
それとともに激しい後悔も、クルースニクの心には重く圧し掛かるのであった。
ユウリィの清廉そのものの体が、わけの分からない男の目に晒されてしまうなど、我慢ならない。
それならいっそ自分が。
既に妄想の域に入っていたその考えを振り払い、クルースニクは浴室の前に辿り着いた。
「ユウリィッ!」
「え、ちょ、兄さん……?!」
心臓は早鐘のように打ち、自分でも緊張するのが分かった。
ユウリィの声も緊張のあまり聞こえないまま、ばんと勢いよく開け放した。
「ユウリィ、どうかしたの、か、……」
そこにいたのは。果たして覗き魔、ではなく。
「きゃああああぁぁぁッ?!」
先程と全く同じ叫びを、聞いたような気がする。
ただし今度の悲鳴の対象は明らかに自分であったが。
そこまで考えて、今自分が置かれている状況をよくよく認めた。
…
…
…
「うわぁッ……」
「兄さん、早く出てって下さいッ!!」
いやッ、兄さんたらもうッ!! という激しい言葉とともに、クルースニクはどんと突かれ2、3歩後退する。
よろよろしているうちに再び扉は閉められた。
真っ白な扉と向かい合いながら、クルースニクはだらだらと汗が伝うのを感じた。
今、俺は、何を見た?
よく思い出せ。いや、思い出してはいけない。
いやでも、一糸纏わぬユウリィの姿は、例えて言うなら妖精のように愛らしかった。
腕や足の辺りの肉付きはむしろあまり良くないと言っていい。だがかえってそれは無駄の無い体とも言い換える事が出来た。ほっそりした腕や肩がこちらの庇護欲をくすぐるのだ。
肌色も申し分ない。入浴直後という事もあり、全体的に桜色に色付いて妙な艶かしさを感じた。
そして驚く事に、全体的に痩せているように見えて、実はなかなかどうして女の体をしているのだ。
一瞬とはいえ明確に記憶している彼女の体を思い出し、知らず頭に血の昇るのを覚える。
「あの……兄さん、一体何しに来たんですか」
「いや、お前の悲鳴が聞こえたから……」
おずおずとこちらに呼びかけるその声は、明らかに警戒していた。
先程とはうって変わって、クルースニクは声を小さく、主張も控えめにして彼女の警戒を解く事に集中した。
「何が、あったんだ」
「バスタブに大きい虫がいて、ついびっくりしちゃって」
「覗き魔じゃ無かったのか」
「……何の話です?」
「いや、こっちの話だ。それよりまだ虫がいるのか?」
「いえ、もう逃げていきました」
そうか、と口の中でもごもごと納得した。何となく残念な気持ちになる。
「もう……びっくりしました。突然入ってくるんだから……」
「すまない。お前の声で、何か起こったのかと、つい気が急いて」
クルースニクは彼女には見えないのにも関わらず頭を垂れた。
反省している。これ以上無いというくらい申し訳ないと思っている。
まさか妹のあんなあられも無い姿を見てしまうなんて。
反省しているが、一生忘れない。
「わたしだって、もう子供じゃないんだから、自分の事は自分で出来ますよ」
「子供……」
もう、子供じゃない。だから不安なんだ。
お前に寄り付くどこの馬の骨とも分からない男を野放しには出来ない。
だから走ったのだ。
「覗き魔が、出たと思ったんだ。お前があんなに叫ぶくらいだから、覗いたくらいじゃ済まなかったのかと、つい慌ててしまった。許してほしい」
返答は、無い。
妹に軽蔑された、と感じた。けれど今更見てしまった事を取り戻す事も出来ない。
心臓の辺りがずしんと重たくなるのが分かった。
どうしたらいい。どうしたら許してもらえる。
ユウリィに軽蔑されたまま生きていくくらいなら、死んだ方がましなのだ。
その瞬間、かちゃりとノブが回されてユウリィが出てきた。
今度はちゃんといつもの青いパジャマを着ている。
それとは対照的に、頬の辺りが桜色なのが見て取れた。
風呂に入っていたから、というよりも、やはりその姿が見られて複雑な気分なのだろう。
「ユウリィ……悪かった。許してほしい。今度からはちゃんとノックするから」
至極当たり前の事を口にしながら、クルースニクはひたすらユウリィの前で項垂れ続けた。
途端、ふふ、という微かな笑い声を聞いた気がしてクルースニクは顔を上げた。
ユウリィは微笑んでいた。怒っているのでもなく、呆れているのでもなく、微笑んでいたのだ。
「……怒ってないのか」
「怒る気も失せました」
「そうなのか?」
よく分からない。
「兄さんの勘違いったら、本当に的外れで。この町でそんな事起こるわけないじゃないですか」
でもね、と彼女は続ける。クルースニクはじっとそれに聞き入るばかりだ。
この町がいくら田舎であろうと、関係無い。あの姿を見て、なおの事納得した。あんなユウリィを見たいと願う輩は少なくないだろう。
そうは思うが、黙っておく。
「兄さんがわたしの事、いっぱい考えてくれてるんだなって、それがよく分かりましたから、今回はそれに免じて許します」
「本当か」
それはもう、いつだってユウリィの事なら考えている。
どれくらいいつも考えているのか、彼女は分かってないらしい。自覚が足りないとも思ったが、ここで波風を立てるわけにはいかないので黙っておく。
「うん。だからもう、……わたしが入浴中に入ってこないで下さいね」
最後の方で、また思い出したらしく。彼女の頬は先程より色付く。
「約束する」
「兄さんは約束をすぐに破るから、心配です」
言いながら、ちっとも心配してなさそうなユウリィは、また微笑みを返すのだった。
その愛らしい微笑みを眺めながら、クルースニクは。
今夜は眠れそうに無いな、とぼんやり考えていたとかいなかったとか。
おしまい
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