優しい雨


 ざざざざざ……。
 仕事からの帰り道。急に雨が降ってきて、ユウリィは慌てて家の中に駆け込んだ。
「やだーっもう、さっきまであんなに晴れてたのに」
 出しっぱなしの洗濯物を取り込む事も忘れ、彼女は窓の外の空を仰いだ。
 午後の授業を始めた時にはまだ青空が見えていたのに、終わる頃にはすっかり曇って全く太陽が見えなくなっていた。
 今もなお、雲は厚い。土砂降りとまでは行かないまでも、気を陰鬱にさせるのには十分なくらいの雨量だった。
「みんな、傘持ってきてないよね……」
 ひとりひとり、生徒の顔を思い浮かべる。

 教師という職についてから、幾年か過ぎた。
 可愛い生徒達に囲まれて、今は幸せで安定した日々を送っている。
 それに何の不満もない。満ち足りている。
 けれど時々こんなふうに。天気と同じように、気持ちが妙に曇る事がある。

 解決しなかったたくさんの事を思い浮かべて、ひとりきりなのをこらえている瞬間がある。
 努めて考えないようにはしている、考えれば自分が不安定になるのが手に取るように分かるから。
 けれど時々は。考えてしまう。あの人は今どうしているだろうかと。
 ユウリィ自身は、何も見ていない。見たのはジュード一人だけだ。
 けれど彼は頑なにその瞬間に何が起こったのか話そうとはしなかった。
 ユウリィにとっては全ては推論の域を出ない。
 もちろん、ある程度の推察は出来ている。覚悟に似た感情もある。だけどジュードが何も言わないのなら、彼女の推察が決定的になる事はない。
 だから普段は「きっとどこかの空の下で」と自分に言い聞かせている。

「……いけない」
 ユウリィはぽつりと呟いた。
 この暗い空の色に、自分の心が引きずられている。
 どこかの空で見ているだろうあの人のために、ちゃんと恥ずかしくないようにしなければ。
「今日はご飯作って、食べて、寝よう。きっと疲れてるんだわ。だから悪い方に悪い方に考えが行っちゃうの」
 それもこれもみんな天気が悪い所為。
 洗濯物はびしょ濡れだし、髪だって雨に濡れてべたべただし、今日は本当についてない。
 タオルで髪の水気を切りながら、鞄の中身が雨で濡れていないか確認しようとざっとテーブルの上に出した。
瞬間気付いた。
「……無い」
 持って帰る筈のプリントが丸ごとなかった。
 子供たちの宿題の採点を家でやろうと思っていたのだった。
 雨だから早く家に帰って来る事にばかり気を取られて、肝心要の子供たちの宿題を持って帰ってくる事を忘れてしまった。
 明日の朝早く行って採点すればいいでしょう、という声が頭の中に響いた。
「……先生、だめね。みんなと同じ事して何とかしてさぼろうとしてる」
 朝宿題を慌ててやっている生徒がいたら、きっとユウリィはそれとなく叱るだろう。それが分かるから、逆に先生が朝採点をしていたのでは示しがつかない。そもそもそれではユウリィ自身が納得いかない。
「とっても嫌だけど……仕方ないわよね」
 今更濡れたところで変わりはしないだろう。
 タオルを洗濯籠の中に入れると、玄関まで戻ってきて傘を開いた。
 否、開こうとした。
 実際には開かなかったのだ。
「あれ、壊れてる……」
 かちかちと何度も開こうとする。傘はきしむだけでひたすら抵抗を続けているだけ。
 さっきまでは何ともなかったのに。
 今日は本当についてない。
 雨は降るし、気分は下降するし、洗濯物はびしょ濡れだし、髪だって雨に濡れてべたべただし、子供たちの宿題は忘れるし、傘は壊れたし!
「今日はきっと運が悪かったのね……」
 観念して傘無しで突撃する事を決めて、がちゃりとドアを開いてそこでユウリィは「え?」と少し声を上げた。
 見慣れぬものが視界の端にあった。
 先程はそんなものは無かった筈なのに。

 か、さ?

 ドアのノブに引っ掛けられている。黒い傘。
「……忘れ物?」
 どうしたものか分からず、ユウリィはその傘を手に取った。
 誰かがわたしのものと勘違いしてここにこうして掛けていったとか。
 それなら呼んでくれれば良かったのに。私はここにいたのだから。
「生徒のもの……ではないよね」
 生徒には黄色い傘を使うように厳命してある。
 雨の日には暗い色の傘だと人から見えづらいから、と。
 第一子供のものにしては大きすぎる。
 ぱっと開いてみると、思っていたよりも大きいサイズなのが分かった。
 大人の、しかも背の高い男物の傘だった。
「……」
 傘を閉じ、その取っ手を握ったまま、その場で考え込む。
 わたしがこの家で住んでいる事を知らない人はいない。こんなに黒い傘なんて、女の人は持たないって事くらい分かりそうなものなのに。
 何となく、取っ手から元の持ち主のぬくもりを感じた。
 閃く事があってユウリィはもう一度傘を開いてみた。
「……やっぱり」
 傘は濡れていた。新品ではない。傘の部分に水が滲みているのが分かった。
 先程まで誰かがこれを使っていたのだ。

 飾りのない、質素すぎる黒い傘。
 ぽつりと、ユウリィは呟いた。
「……使っても、いいのかな」
 きっとこの持ち主は、ユウリィにこれを渡すために自分のものを譲ったのだ。
 それならその人は、今頃濡れて帰っている。
 そしてこの傘を無視する事は、この傘に対して、そしてその持ち主に対して失礼である気がした。
「……乾かして、返します」
 ユウリィはぺこりと誰にともなくお辞儀をすると、ぱっと傘を開いて歩き始めた。

「ありがとう……」
 声は届いたのかどうか分からない。
 今日はついていない、と思っていたけれど。どうやらそうではなかったらしい。
 ただ。
 流れる雨を、ひどく優しく感じた。


おしまい


■あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございました!
「あの人」の、とても分かりにくいユウリィへの愛を感じていただければ幸いです。
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