潮騒。
ポートロザリアの診療所は、海から少しだけ離れているけれど、そこからでも十分に潮の音が聞こえてくる。クルースニク・アートレイデはベランダに佇んだままじっとしてそれに耳を傾けていた。
他にする事もなく、ついでに言えば他に何をしようにもその意欲が無いのだった。独特の香りのする潮風に、彼の着ている黒いタンクトップがはたはたと揺れた。
彼ははあ…と重い溜め息をつくと、おもむろにオルゴールを取り出し蓋を開け、じっとそれに聴き入った。際限なく出る溜め息。後ろで彼を心配そうに見つめていたモルガンが近寄ってきた。
「…ナゲヤリ君?」
返事は溜め息だった。慣れっこなのか、特に気にした様子も見せずにモルガンは彼の隣に立った。
「それが前にちょっと言ってた、妹との想い出のオルゴール?」
妹、という単語に、ぴくりと彼が反応するのが見えた。いい傾向だ、とモルガンは呟いて言葉を続けた。全くの無反応であるならば本格的に病気だが、そういう点で彼にはまだ救いが有る。
「いい曲だね」
「…そうだな」
はっきりとした口調で突然答え始めるクルースニク。妹に関する事にのみ、この男はつくづく饒舌になる。
「仲が良かったの?」
「相当に良かった」
「ふうん。ラブラブだったのか」
「そうだ。相思相愛だった」
どう突っ込んでいいのか分からず、モルガンは苦笑した。が、これも彼に対する治療のうちだと判断して、モルガンは思い切った質問をぶつけてみた。
「そういえば、あんたたちがそんなに想い会うようになったのは、いつからなの」
どこから話したらいいものか、しばらく水平線を眺めていたクルースニクだったが、自分の中で考えが固まったのか静かに話し始めた。
「そうだな…あれは俺たちがまだ白い孤児院に閉じ込められていた頃の話だ…」
*
それは何年も昔の事に遡る。
二人が白い孤児院にいた頃の話。白い孤児院などという名前、勿論名ばかりで、孤児院と呼ぶよりは実験施設と呼んだ方が分かり易い。身寄りの無い小さな子供たちを集めては人体実験を繰り返していた、おぞましい施設だ。
その施設の中に、仲睦まじい兄妹がいた。クルースニク・アートレイデという名の兄と、ユウリィ・アートレイデという名の妹。よく似た、整った顔立ちの兄妹だ。
二人は今日も空の見えない遊び場で佇んでいる。繰り返される実験の副作用で、こんな遊び場があってもそれを遊び場として使う事など皆無で、だいたいは次の実験としての待合室として使われている。遊び場は白い壁で囲まれていて、清潔感とともに閉鎖感を生み出している。
そこで、実験が終わったばかりのユウリィを迎えに来たクルースニクの姿があった。
「…大丈夫か」
「うん」
俯きながら実験室から出てきたユウリィの顔は、青白い。その背中をそっと支え、または撫でてやる。苦痛なら自分が引き受けるのに、カテゴリB+の彼女は特別に残酷な実験が行われる事も多い。自分がそれを身代わる事は不可能なのが、歯痒くてたまらない。
「気持ち悪いのなら、部屋に…おい、ユウリィ」
「…え…?」
俯いたまま、とぼとぼと兄の横を歩こうとしていたユウリィは、思いがけない兄からの制止に立ち止まった。
「どうかした?」
「お前…あの、くまのぬいぐるみ、どこへやったんだ」
どんな時も肌身離さず持ち歩いていた、ユウリィのお気に入りのくまのぬいぐるみを今日彼女は持っていなかった。実験の時にはそのぬいぐるみをぎゅっと持っていると痛みが緩和されると彼女は言っていた。今日に限って部屋に置き忘れてきた筈も無い。
「失くしたのか? なら俺が…」
探そうか。そう言い掛けて、ユウリィに遮られる。
「違うの。あれは、あげたの」
「誰に」
「友達に」
「何故。大事だったんじゃないのか」
「大事だよ。けど…あの子、レイチェルは」
指し示す、その先にユウリィの言う「レイチェル」がいた。ユウリィと同じく、実験のために嘔吐や発熱を繰り返し、衰弱しかけている。その身はがりがりに痩せ細り、あと数週間ももたないだろうとクルースニクは見当をつけた。…同じような子供を何度でも見てきた。経験論。
クルースニクやユウリィのようにカテゴライズ出来る程の能力があるのであれば、かえって生存率は上がる。そうでない者は死に行くのみ。このレイチェルは明らかに後者だった。
ぱさぱさでごわついた髪、そして虚ろな瞳を持つレイチェルはその両腕にくまのぬいぐるみを抱えていた。間違いなく、元はユウリィが持っていたものだった。
レイチェルに聞こえないように小声で、気を遣ってユウリィは囁いた。
「わたしより小さいのに頑張っている。…生きてほしい、から。元気を出してほしくて、あのぬいぐるみをあげたの」
彼女も分かっていて言っている、…レイチェルは生き延びられない事を。それでなお、生きるための希望を失わせないため、最後まで人間としての尊厳を失わせないためにあれをあげたのだ。
死ぬ事は、おそらく容易い。死ねばこの牢獄から出てゆける。朝日が来る事に怯えを感じずともよくなるのだ。逃避は易しい。それでも戦うように差し向けるユウリィに、クルースニクは本当の優しさを感じた。何もかもを甘えさせる事に優しさはあるのではない。それを、今のユウリィが何より証明していた。
それでも、と思わずにはいられない。ぬいぐるみを差し出したユウリィには、逃げ道がひとつも無い。誰かに優しくして、彼女自身が犠牲になってしまうのでは見ている側が耐えられない。
「お前だって、遊んでいいんだぞ。小さい子にあげたのは感心だけれど…」
ユウリィは彼がそう言う事が分かっていたと言わんばかりににっこり笑って、首をはっきりと横に振った。
「わたしなら、いいの。わたしには兄さんがいる。ひとりじゃない。…でもレイチェルはひとりきりだから」
「…そう、だな」
ユウリィは自分が今言った事に何か感じるところがあったらしく、少しだけ赤くなった。
「でも、今のわたしの台詞って、兄さんが傍にいてくれるから言えるのだけど」
「…? 言いたい事が分からない。俺はいつもお前の傍にいるじゃないか?」
「うん、だからね、わたしはとても恵まれていると思う。兄さんがいてくれて、どれだけ勇気づけられているか。…それだけじゃなくて。いつもわたしを見てくれていて、感謝しているの。兄と妹ってだけじゃなくて、兄さんがわたしを見守っていてくれるからわたしは頑張れるの」
当たり前だ、と呟いてクルースニクは朗らかに笑って、ユウリィの頭を撫でた。子供らしい、精神的に多大な負荷がかかってもなお艶のある髪。逆だ、と声には出さず確認した。クルースニクの方が、余程勇気づけられている。この笑顔を、この優しさを守るために、自らは存在する。妹がいなければ、きっと早くに自分は絶望に染まっていただろうから。
「だから、これからも…わたしを、ひとりにはしないでね?」
「勿論だ。お前は俺が守りきる。何があっても、お前をひとりにはしない」
絶望の淵にいるような者でも分け隔てなく優しく出来るこの子の心を、誰にも曇らせさせたくない。そんなユウリィを守りきるのは、彼女をずっと見つめてきた自分にしか出来ない役目だ。
「なんだ、わたしたち、両想いなんだね」
「当たり前だ。俺はお前しか見えてない」
「うん、わたしも兄さんが大好きだよ」
白い孤児院。終わらない悪夢の中であっても。
兄妹はいつまでも、微笑みあっていた。
*
「…というわけだ」
彼が暗黒の少年時代を過ごしていたとは知らなかった。モルガンは返答に詰まって、俯いた。
だから今になって彼の中に歪みが生まれ始めているのか、とかこれほど妹馬鹿になるのも頷ける、とか脳内で結論付ける。
クルースニクはそんなモルガンの様子に気が付く事もなく、話を締めくくった。記憶の中のユウリィをなぞっているのか、うっすらと笑みさえ。
「俺はその時から、妹を守り抜くと決めたんだ」
その結果が、今のこのニート状態?
…などとは、例え思ったとしても言ってはならないNGワードだ。モルガンは咳払いをするとその言葉を何とか飲み込んだ。代わりに吐き出したのは、これから彼をどうやって治療していくか思案するための溜め息。
「まあ、いいけどさ…」
潮騒。黙って寄せては返す波を見るのは、今はまだクルースニクとモルガンの二人だけ。
彼がユウリィ・アートレイデと再会するのには、あとまだ数日を要する見込みだった。
おしまい
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