「…受け取って下さい」
見通しの悪い曲がり角。
そこを通り抜けようとしたところで女性の声が聞こえて、思わずユウリィは立ち止まった。
今日は2月14日。一年の内で最も甘い一日だ。そんなタイミングで女性が誰かに「受け取ってほしいものがある」なんて台詞を告げる辺り、渡すものなんてひとつしかない。それにユウリィの耳に届いたその声。恋をする女性の声だ。誘惑するように、そちらへと引き込むように、甘い。
引き返せば良かったのに、既に体は前に出すぎていた。遠くの方に女性と男性がいる。その姿を認めて、あ、とユウリィは小さく声を上げた。
――兄さん。
兄と、見知らぬ女性が一緒にいる。
女性は恥ずかしがりながらも小さな箱をプレゼントしようとしている。ピンクの箱に赤いリボンが巻かれているそれを兄――クルースニク・アートレイデへと差し出している。兄はこちらに背を向けているため、彼の表情はここからではよく分からない。分かるのは、彼がいつも通り直立不動である事だけだった。
見たくないのに、目が離せない。
その中味が義理などではない事は火を見るより明らかだった。女性の赤い頬。潤んだ瞳。自分が子供ゆえ、まだ持たない要素ばかり持っているその可憐な女性。
嫌だ。そう思った。自分の中に棲む獣が息を荒げる。そいつが、ごうごうと唸りを上げた。
ユウリィは反射的に彼らに背を向けると家へと駆け出した。
*
家まで戻ってくると、ようやく走るのを止めてはぁ、はぁ、と息を吐いた。
壁に手をついて息を整える。
改めて考えてみる。どうして逃げてしまったのか。だって「兄」なのに。この行為ではまるで、見てしまったのが自分の恋人であるかのよう。…恋人。自分は一体何を考えているのか。実兄を捕まえて恋人扱いなどと。
これが通常の兄と妹なら、あんな場面を見たら囃し立てるものだと聞く。囃し立てるなんてとんでもない。衝撃を受けて逃げ出した自分。胃から込み上げてくる何か。浮き出す汗。これは一体何なのか。
「――ユウリィ」
息を吐くユウリィの背後から、声を掛けられた。聞きなれた低音。振り返った先にいたのは、――兄だった。
「…兄さん」
咄嗟の事で、どういう言葉を掛けていいのか分からない。迷う素振りを見せると、兄は意外な言葉を告げた。
「さっき、いたのか」
「…見てたんですか?」
「走り去る音で気付いた」
知られたいた。ますます逃げ出した事を後悔した。
「どうしてそんな顔をする」
「だって…」
「――そんな顔をするな。気がおかしくなりそうだ」
「え?」
「これ以上俺を惑わせないでくれ…」
何の前触れも無く突然ぎゅっと抱きすくめられてユウリィは「きゃっ」と声を上げた。
「に、兄さん…?」
「――自惚れていいのか。お前が走り去ったのは…俺がチョコレートを受け取るのを、嫌がったからなのだと」
苦しいくらいに抱き締められる。呼吸すらしづらい程に強く、でもそれは甘く。
熱に浮かされるように、ユウリィはゆっくりと答えていた。
「…自惚れて…下さい。…わたし以外の人から、チョコなんて受け取ってもらいたく…なかったから」
「…ユウリィ」
耳元で名を呼ばれる。それだけで、心の奥にある鍵が外れる気がした。
兄の片手が頭を撫ぜた。髪を櫛とかす。
「お前から、チョコレートが欲しい…」
切実な響きの篭るそれに、ユウリィは自分の目が潤むのを覚えた。こんなものは、絶対におかしい。自分たちは兄と妹なのに、こんなやり取りが生まれるなんて絶対に。分かっていても込み上げる嬉しさをどうしようも出来なかった。堅物な兄が、たくさんの女性たちから目を留められている兄がたったひとつ欲しているのが自分なのだ。優越感を感じない、わけがない。兄の背中に腕を回して、ユウリィは答えた。
「昨日、兄さんが仕事中に作っておいたんです。…だから、一緒に帰りましょう? 兄さん」
きっと堕ちていく。それでももう止められない。
「そうだな、帰ろう。二人で一緒に」
そして一緒に食べよう。甘美なチョコレートを、二人で。
おしまい
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