「さーてと。今日は、何をしようかな」
おはよう、とアンジェリークはテーブルの上の花に挨拶した。
今日も育成に追われる一日が始まる。
「ええと。今のところ……ロザリアに建物5個分リードされてるのね」
窓際の書類を見ながら確認する。
「ロザリアってば本当に賢いんだなぁ。それとも、私にやっぱり育成の才能がないのかしら」
考えれば落ち込んできた。
止めよう、とアンジェリークは息を吐いた。
「私は私に出来る事をしなくちゃ。とりあえず今日はルヴァ様のところに行って力を送っていただいて、……ちょっとくらいお話しようかな。いいよね、ちょっとくらい」
彼女が飛空都市に来てから140日が経過した。
未だ次期女王は決定していない。
しかし次期女王はロザリアが勝利しそうな気配を見せていた。
おそらく女王はロザリアになるだろう、アンジェリークはそう考えていた。
不出来な自分より、才能もあって立ち居振る舞いに気の配れるロザリアの方が女王として相応しい、と。
ここまできて試験に負けるのはやっぱり悔しいし、悲しい。だから負けないように自分なりの精一杯で試験に挑んでいるつもりだ。
でもそれでも差が縮まる事はなかった。
余計惨めでしょうがなくて、最近のアンジェリークは塞ぎがちだった。
そんな時に良くしてくれたのが地の守護聖ルヴァだった。
彼はアンジェリークの心情を知ってか知らずかよくお茶会に誘ってくれた。それだけではなく、時々自分を森の湖に連れ出してくれた。
何がきっかけだったか分からない。
でも、優しくしてくれてアンジェリークは嬉しかった。
頭ごなしに「もっと育成しろ」と言われ続けてきたアンジェリークにとっては、試験については何も触れてこないルヴァの存在を救いに感じていた。
一度、彼に聞いてみた事がある。
「どうしてルヴァ様は私に優しくして下さるんですか」
ルヴァは照れまくったあとやっとこう答えた。
「……秘密です」
そう、多分答えてくれなくても良かったのだ。彼の表情は言葉を出すより雄弁だった。彼の口からぽんとオスカーのようなくさい台詞が出てきたら、きっとアンジェリークは信用しなかっただろう。
答えてくれなくても、その顔で十分だった。
その後も彼等は逢瀬を重ねた。
アンジェリークにとっては初めての体験をした。
それは年上の男の人を好きになった事だ。
例えば、年がうんと離れていても。
例えば、相手が守護聖でも。
それは子供のような恋なのかもしれない。
でも楽しかった。時々切なくなったりもした。だからよくロザリアに相談をした。
アンジェリークにとって、ロザリアは全く敵わないライバルであり、何もかもを話せる親友だった。
*
今日も飛空都市の空はどこまでも青かった。
背伸びをする。
背伸びをしながら、横目でちらっと隣家を盗み見た。
「ロザリア、元気かな。最近会ってないけど。でも会いに行ったら忙しいからって断られそう」
と独り言を呟いたらいきなり彼女の家のドアが開いた。
すこぶる元気そうだった。
しかし様子が変だった。顔はほんのりと上気していて、目はいつもとは違いどこか心ここにあらずの状態だ。
(なんか、変)
こちらに気付く様子もない。
そしてドアの向こうからもう1人出てきた。
アンジェリークは我が目を疑った。
「あー、どちらに行きましょうねぇ」
「公園に行きませんこと?」」
「ええ、いいでしょう」
「早く行きましょ? ルヴァ様」
(ルヴァ様!)
見間違いではない。
がくがくと膝が笑うのが分かった。
指先が冷たくなっていく。小さな震えまで。
裏切られた。最初に感じたのはそれだった。
(ルヴァ様が。ロザリアが。私を裏切ったの)
彼等はひどく仲が良さそうに、ロザリアはルヴァと腕をからめて。
ルヴァもまんざらでもなさそうな顔。
(やめて。やめて……!)
涙ではない。怒りに似た感情がじわじわ心に食い込んでくるのが分かった。
これは。目の前で繰り広げられるこれは本当に現実なんだろうか?
(何? 何なの?)
わけが分からない。
どうしてこんな事になっているんだろう。
どうして二人が。
会っているんだろう。
「あ、アンジェ?!」
ロザリアがこちらに気付いて特有の高い声を出した。
ルヴァが慌てふためくのが分かった。
「アンジェ、あのね……」
こちらに駆け寄り、何か説明しようとしたらしいロザリアを強く制し、アンジェリークは声を振り絞った。
もう、声だって出るかどうか。
でも。
「だいっきらいよ」
不思議とすんなりと声は出た。二人が息を呑むのが分かった。
果たして自分はどちらに向かって言葉を発しているのだろう。
分からない。
もう何も分かりたくなかった。
「だいっきらい」
叫びに似た呟きを残して、アンジェリークは自分の部屋に駆け戻った。
ベッドに突っ伏す。
もやもやと普段見せない優しい笑顔と、ルヴァのロザリアを温かく見つめる視線を。
(嫌……考えたくない)
だけど脳裏に浮かんでしまう。
ロザリアは私がルヴァ様を好きな事知っていたのに。あんな顔ルヴァ様の前でして一体どういうつもりなの。ルヴァ様だって私といて楽しそうにしてたくせに私の事はただの女王候補としてしか結局見てくれていなかったの? あんなふうに顔を赤らめて私の問いに答えてくれたのは何だったの?
二人して、私を裏切ったんだ。
(それでも私、あの人が好きよ……)
裏切られても。優しい微笑や熱のこもった掌をそう簡単に忘れられるわけがない。
忘れられない。だけど私は裏切られた。
だから。
(……辛い)
今更になって涙が止まらなかった。
結局その日は育成をする気にもならず、ひたすら1日中泣いて終わった。
泣いてすっきりするかとも思ったが、余計にもやもやした気持ちが残るだけだった。
どうやってこの気持ちを片付けたらいいかその糸口も見つけられなかった。
気持ちは泥沼、とため息をついた。
そして次の日も、そのまた次の日もアンジェリークは全く部屋から出なかった。
とても育成という気分ではなかった。もう早く家に帰りたかった。
母や。大事な友人たちに洗いざらい話して楽になりたかった。
(そりゃ、私とルヴァ様はまだ付き合ってるわけじゃないんだからルヴァ様が誰とどう過ごそうかなんて自由だわ。でもだからって。私と何度もデートしたくせに今更「実は気なんてなかった」なんてあんまりだわ、だったら最初から私に触れてほしくなかった)
あの人を。救いだと、思っていたのに。
救ってくれるどころか、あの人はアンジェリークを突き落としたのだ。
*
アンジェリークが部屋に篭りきりになって一週間が過ぎた。
外はどうなっているだろう。
ロザリアはどうしているだろうか。彼女の事を考える余裕も出てきた。
その時ドアがノックされ、アンジェリークは身を震わせた。
居留守を使おうと息を潜める。
もしこれがルヴァ様で、謝罪を言いに来たのだったらどうしよう。一瞬そんな考えが浮かぶ。
でもそれならもっと早く来る筈だ。謝るつもりならあの当日に謝っている。
「アンジェリーク! 居留守なんて使ったって駄目。いるのは分かっているのよ」
ノックの主は、ルヴァではなかった。ロザリアの方だった。
やっぱりと思う半面、落胆を隠し切れない。
扉越しにアンジェリークは声を張り上げた。
「帰って」
「いい度胸ね。わたくしがわざわざあんたの所まで出向いてやってるっていうのにそういう態度に出るわけね」
「何よ! ルヴァ様とデートしてたくせに。私がルヴァ様の事好きなの知ってるくせに。ひどいよ、ロザリア」
「違うのアンジェ、聞いて。あれはデートなんかじゃないの。わたくしが、育成について分からない事があったからお呼びしただけなの」
どうだか。無視して押し黙ると、ロザリアはなおも言い続ける。
「わたくしはあんたの信頼を裏切るような真似はしていないわ。そんな低俗な人間と一緒にしないでちょうだい」
確かに、そうなのだ。
ロザリアがこっそり人の想い人に会うだなんて卑怯な事をするだろうか、とは思っていた。
いや、そうでも思わないと自分が納得できなかった。
「アンジェリーク。出てきてらっしゃい」
強く命令するその声に逆らえず、アンジェリークはドアを音もなく開けた。
「ひどい顔」
特に同情するでもないロザリアの言葉。
「あんな場面見たら誰だってこうなるわ……」
アンジェリークは赤い目を擦った。
「ね、アンジェ。聞いて。……わたくしが悪かったの。誤解させるつもりなんかじゃなかった。本当よ」
どう言ったものか分からず、アンジェリークは頷いただけで言葉を返さなかった。
「アンジェに失礼な事をした……そう思ってるわ。二度と、会ったりしないから」
「別に……いいよ。そこまでしてくれなくても」
「二度と、会ったりしないから。育成のお願いも、他の方に頼んで、けしてルヴァ様にお願いしたりしないから」
「ロザリア……?」
今泣きそうだったのは、アンジェリークというよりむしろロザリアだった。
「わたくし、あんたの思いを裏切ったり、しない。……あのねアンジェ、ルヴァ様がいたく後悔なさってるの、あんたは気付いてないんでしょうね。会って差し上げなさいよ。それと前言の撤回も。あんたたちとっくに両思いだったの、気付いてないのはあんたたちだけだったのよ」
少しだけ、いつもより早口のロザリア。
大切な事を確かめるために。アンジェリークは口を開いた。
「この際だから、ちゃんと訊くね。ロザリアは私の話……ひょっとして、我慢して聞いてた? それとも、」
「当たり前の事訊かないで。わたくしはいつもあんたに協力しようという心持ちであんたの話を聞いてたわ。……これで十分でしょう」
うん、と呟いた。
それなら、いいの。
ロザリアはルヴァに育成の事で話がしたくて、それにルヴァも乗った。ロザリアは色々な事が訊けると楽しみだった。女王になるためにはたくさんの知識が必要だったから。ルヴァは、そういう意味で必要だった。
それが、真実。
「ロザリア……ごめんなさい。だいきらいなんて嘘だから、ね。大好きよ」
ロザリアは自分に誠意を見せてくれた。それにはきちんと答えなければ。
「だいきらいなんて……裏腹な事言ってちゃ駄目よね。分かってるのに、ひどい事言っちゃった。ルヴァ様に言いに行って来るね」
もう一つの真実を訂正するために、アンジェリークは駆け出した。
*
その場にロザリアが残る。
ロザリアは自分の手の震えに気付かない振りをして、その場に立ち尽くした。
「ロザリア」
影から呼びかけてきたのはリュミエールだ。
彼は物陰から出てくるとそっとロザリアの両肩を包んだ。
「もう大丈夫です、ロザリア……」
「リュミエール様……わたくし、おかしくありませんでしたか? わたくし、不自然ではありませんでしたか?」
「ちっとも。……ロザリア、あなたが選んだ事とはいえ、本当にこれで良かったのですか……?」
ロザリアはリュミエールに背を向けたまま答える。
「仕方がなかったんです。わたくし、あの子を裏切れない。毎回毎回どんな気持ちでわたくしがあの子の話を聞いてたかなんてアンジェリークはきっと一生気付かないだろうから。わたくしがいつもどんな気持ちであの人の事を想っていたかなんて……!」
握ったこぶしがぶるぶると震えていた。
「罰が、当たったんです。あの子の気持ちを知っておきながらこっそり会ったりなんてしていたから。わたくしが、悪かったんです」
「どうか何もかもをご自分の所為にしてしまわないで、ロザリア」
「馬鹿なわたくし……リュミエール様、わたくしアンジェの事なんてだいきらいです……本当にだいきらいなんです……でも、自分の事はもっとだいきらいです……」
「ご自分を卑下なさらないで。あなたはよく頑張りました。もう十分です、ロザリア。もう我慢しなくてもいいのですよ」
ロザリアは振り向くとリュミエールの腕の中で声もなく涙を流し続けた。
一方。アンジェリークはというと、今ちょうどルヴァの執務室に辿りついたところだった。
「ルヴァ様……っ」
「あ、アンジェ?!」
ルヴァも、アンジェリークの姿に気付くと慌てて駆け寄ってきた。
「ごめんなさい。あんな事言うつもりじゃ、本当はなかったんです。あんな場面、だって見たくなかったから。だけど……それで自分の気持ちが変わってしまうわけじゃないって事も、十分分かったつもりです。私、ルヴァ様が……」
言葉を切って、ルヴァの瞳を見つめた。
「好きです」
ルヴァはというとあんぐりと口を開いたまま停止している。
何かもう少し反応してほしいのに。
「ルヴァ様……」
「良かった……あなたには、嫌われたかと想いましたから……あなたに嫌われたら、もう私は生きていけませんよ」
ルヴァ様が近付いてきて、ふわっと抱き締められた。
優しい腕の中で、彼の答えを期待しつつアンジェリークは考えてしまうのだった。
きっと、あんなに苦しんだ事も、無駄じゃなかった。
こんなに今幸せなのは、あの嘆きあっての事なのだから。
「アンジェ……私も、あなたの事が大好きです」
だいきらいじゃない。大好きよ。
おしまい
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