別れの時間は近づいていた。
第256代女王、アンジェリーク・リモージュの御世は終わった。
既に新しい女王と補佐官は選出されている。
即位は先程済んだ。もはやアンジェリークが聖地に留まる必要はなかった。
これからはただの人間として。彼女は生きていく。
小さなトランクが一つだけ。
主星に戻った彼女が持っていた荷物はそれだけだった。
聖地へと持ってきたものと、ほんの少しの思い出を、またトランクに詰め込んだだけ。
女王となった遥か昔の出来事を、昨日のように思った。
自分のように頼りない人間が女王でいいのか。最初はそう思った。
だが上手く世界は回っていくものだ。
自分に出来ない部分はロザリアがフォローしてくれた。手が回らない部分には守護聖が力を貸してくれた。
泣きたい時には、今自分の傍らに立つこの男性が胸を貸してくれた。
プラットホームにて。
既に目的の列車は来ているが、彼女はまだ乗り込まずにいた。まだ乗れなかった。
アンジェリークはただひたすら全てのものに感謝をしていた。
特に隣の男性、ルヴァに。
常に自分を支えてくれた、何より大好きな人。
そして彼との別れの時が、近づいているのをひしひしと感じていた。
女王でありながら、彼とは恋人という関係にあった。
全てのものに愛を注がなければならない女王が、個人を愛するなど言語道断。そう意見するものもいた。
アンジェリークとルヴァは耳を貸さなかった。
愛している人を愛していないと嘘をつくのは女王のする事ではないし、愛する人が特別にいたからと言って他のものへの愛を疎かにする事はしないとお互いに決めていたからだ。
毎日、ぎゅっと抱き締めあって。
毎日、おはようとおやすみのキスをして。
おしどり夫婦だとからかわれた事だってある。
そう言われた時には、お互いにそうだねと頷き、笑いあって。
……そんな優しい風景も今日が終わりなのだ。
「アンジェリーク? どうか、しましたか」
「いいえ……昔の事を、少し思い出してしまって」
「昔の事、ですか?」
「うん……あのね、ありがとね。こんな所まで着いてきてもらっちゃって」
「いいんですよー。私が好きで勝手にそうしてるんですから、あなたは気にしないで下さいね」
「ありがとう」
にこりと微笑むと、ルヴァはかえって傷ついた顔をしてそっと手を握ってきた。
ほっとする暖かさが伝わってきて、またアンジェリークは泣きそうになる。
今日でこの人とお別れなの、さぁちゃんと諦めて。
二度とは会えないんだから。
そう自分に言い聞かせる。今生の別れなのだと。
この人の人生がどんなふうに巡っていっても。
この人が困っても。迷っても。泣きたくなっても。
もう手を差し伸べてあげられない。
心が痛んだ。
きっと同じ気持ちなんだろうな、なんて考えたりした。
「……アンジェリーク」
「なあに」
「あなたを愛しています」
咄嗟の事で、言葉が出なかった。
その次の瞬間に思ったのは、だめという事だった。
だめ。あなたの気持ちを縛ってはいけない。思いを告げては。
これからのあなたには、私はいないんだから。
隣にいない人間を思っても悲しみは募るだけなんだから。
「ルヴァ……」
「あなたはだめだって言うんでしょうね。こんな事を言っては。でも……自分の気持ちに嘘を付くなと言ったのはあなたですよ」
「……ええ。そうだったわね」
「今の私の正直な気持ちです。受け取って、くれますか?」
この先二人の道は交わる事はないけれど。
二度と会うこと叶わなくても。
だからといって今のこの気持ちが変わってしまった、なんてことは無い。
自分の気持ちに、嘘は付けない。
私も正直になろう。決めて、言葉を紡いだ。
「ありがとう。私もあなたが……大好きよ。愛してるわ」
「……嬉しいです」
そのまま。そっと口付けを交わして。
さよならは言わない。
言うなら「いつかどこかで」と。
ベルが鳴る。
焦る気持ち。
「もう乗らなきゃ……」
「アンジェ!」
ルヴァの手を、振り解いて。彼に背中を向けた。
涙が出そうなのを何とか堪えて。
まだ、だめ。列車が出てからよ。
彼が追いかけるようにアンジェリークの背中を抱き締めた。
「あなたの姿が見えなくても、ずっとあなたを守っていますから」
私も、あなたを守っていくわ。
そう言うだけの時間さえ残っていなくて。
交わすのは、最後の口付け。
扉が閉まるそのほんの一瞬の隙に、アンジェリークは列車へと乗り込んだ。
席に戻る余裕も無くて、その場にしゃがみこむ。
やっと、やっと泣ける。
長い間心を預けていた人の事を想って、アンジェリークはただひたすらに涙を流し続けていた。
ずっと、あなたを守っていますから。
ずっとあなたが大好きですから。
そう最後に言ったあの人の顔を思い浮かべる。
その言葉が優しい音楽のように頭の中で流れていた。
この先どんな困難があってもその言葉があれば生きていける、そう思った。
おしまい
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