ずっと聞こえるよ


 知っているわ。
 でも見えない振りを今だけさせて。
 …お願い。少しの間だけでいいの。



「…アンジェリーク?」
 お忍びデートの帰り道。
 俯きがちに歩く彼女に、そっと地の守護聖ルヴァは呼びかけた。
 彼女、アンジェリーク・リモージュとは彼女が女王候補だった頃からの付き合いだが、このところなぜか浮かない顔をする事が多かった。
 デートの帰りで、おしまいなのがさみしいから。と決め付けるのは簡単だし、そうした想像は悪くない。だがそれだけではない感情が胸をよぎるのはなぜだろうか。
「…ん。なあに?」
「あなたが、お元気なさそうに見えましたので」
「楽しかったデートが終わりなんだもん…寂しいわ」
 付き合った日々の長さが、彼女の次の言葉を予測できている。
 アンジェリークは甘えるように彼の腕に絡みついた。
「帰りたくないな…」
 私もです。口には出さず、そう思った。寂しがりやさんの彼女はこういう部分が可愛らしいのだ。口元が緩むのを自覚した。
 付き合うようになって最初の頃は、実はアンジェリークはそれ程甘えん坊ではなかった。どちらかというと見た目に合わずさっぱりした性格で拍子抜けした部分もあった。だが日が経つにつれ、少しずつ彼女はルヴァとの恋愛にのめりこんで行くようになったのだ。
 愛されているという実感がいつもじわじわとルヴァを満たしていた。ルヴァの精神は平静だった。
「また来週、どこかへ行きませんか」
 だがそう提案した直後、アンジェリークがびくりと身を震わせるのが分かった。
「アンジェリーク?」
「…何でもないわ。来週ね。それじゃいつもの場所で」
 いつもより少し早口で。
 知っている。何か隠し事がある時彼女はいつも早口になるのだ。
「何かお仕事が?」
「ううん、そうじゃないの。本当よ」
 慌てて笑顔を作ってみせる。
 作り笑い。痛々しくさえ。
「…ごめんなさい。今日は私、ここで帰るわね。宮殿まで送ってもらっちゃうとロザリアに見つかっちゃうし」
 ふふ、と彼女は微笑んで。ルヴァからそっと体を離した。
「また、来週、ね。ルヴァ」
「…ええ、また、」
 そっと口付けを交わすと、アンジェリークは逃げるように駆けていった。
 駆けていくその途中で、ちらりとこちらを振り返るのも忘れない。いつもの習慣だ。
 手を振ってやると、手を振りかえしてくる。そして今度は本当に振り向かずに戻っていく。
 彼女のあるべき場所へ。

 来週、と提案した時に走った鈍い違和感。アンジェリークの不安そうな表情。そうでなくても曇りがちな彼女の顔。
 いつもと変わらない筈なのに、いつもとはどこかが違い始めている。
(…ひょっとして、私に飽きてきてしまったのでしょうか)
 愉快な想像ではなかった。それに彼女は今日も「帰りたくない」と言ってくれた。帰り際に甘えてくれた。あれがどうして演技だろうか?
 そう思う一方で、辛い想像が肯定できるような材料がある事もまた事実だった。デートの途中でふと遠くを仰ぎ見る彼女。心ここにあらず、どこか沈んだ顔を見せる事のある彼女。見つかるまいと作り笑いを浮かべる彼女。
 辛かった。
 心がじりじりと燃やされていくような。自分の意思とは無関係に。
 例えば、これは例えばの話だが。アンジェリークが別れ話を切り出してきたら自分は一体どうしたらいいのだろう。
(…こんな事考えている時点で、もう彼女とはおしまいなんでしょうか)
 アンジェリークを困らせたくはない。だが別れるなんてもっての他だった。
 別れたくない。だがどうすればいい。
 今夜は眠れそうになかった。



「アンジェリーク。遅かったのね」
「ロザリア…ごめんなさい」
 こっそり帰宅したつもりが、ロザリアには全て見抜かれていた。そもそも「お忍びデート」などと銘打ってあるもののロザリアに対しての「お忍び」である事など皆無だった。
「それで? 今日はちゃんと、言えたの…?」
「ロザリア…私やっぱり無理よ。とても言えない」
 ふるふると首を振って告げると、ロザリアは鋭い視線をこちらに向けた。
「あんたね、それでいいわけ? …別れるって言ったのはあんたじゃないの」
「だけど…出来る事と出来ない事があるわ! あんなむごい事…とても言えないわよ!」
 脳裏に、ルヴァの優しい笑顔が浮かんだ。彼の腕にからみついた時の彼の匂いは、まだ少し残っている。口付けした時の彼の温かさも。
 少しも離したくなんて、ない。彼は私のそばにずっといるべきなのに。
「それで? 出来ない事だと済まして、そしてルヴァを苦しめるつもりなの?」
 早く言った方がいい。そんな事は分かっている。
 理性と感情は違うのだ。
 彼を苦しめたくはない。そして彼には一刻も早く用意をしてもらわなければならない。
 …聖地を出る用意を。
「分かってる…分かってるわロザリア…来週は必ず言うから、もう許して…」
 目に涙さえためて。アンジェリークはふらふらと自室に戻った。

 自室に戻って鍵をかけて。ふーっと息をついた瞬間に糸が切れたように涙が溢れ出すのが分かった。
 ずるずるとその場にしゃがみこむ。
(…私達、おしまいなのよ。ルヴァ気付いてた?)
 気付く筈がない。アンジェリークの気持ちにも、その身から失われるサクリアの量にも。
 地の守護聖交代の時期が近付いていた。
 まだこれはロザリアとアンジェリーク、二人しか知りえぬ事実である。ルヴァから失われたサクリアの量があまりにも微小であるためである。女王にしか違いを認識出来ないのだ。
 本人さえ知りえない。ルヴァにはこれを早急に話す必要があった。後任の守護聖への引継ぎと、彼の生活してきた執務室や館の荷物を片付けと、彼のこれから生活する星の手続きなど、為すべき事は急に増える。
 主星に現れた小さな輝きは徐々に勢いを増している。あるいは前鋼の守護聖ライと現守護聖ゼフェルの時のように慌しいものとなるかもしれない。
 何より、ルヴァに必要なものが覚悟だった。ただの人間に戻るという事がどういう事なのか、身を持って知らなければならない。聖地からの手厚い保護があるとはいえ、何百年と触れていない普通の人間の暮らしにそうすぐ順応できる筈もない。
 何度も何度も考え続けている事がある。何より愛するあの人と、本当に別れなければならないのか。覚悟が出来ていないのは、むしろこちらの方だった。あの人なしでこれからどう生きていったらいいだろう? 想像もつかなかった。ルヴァが自分なしで生きていけるとも思えない。…彼を信用しなさすぎだろうか?
 辛かった。
 別れを自覚して以来、あの人の事ばかり考えている。
 今夜は眠れそうになかった。

 別れを口にしてもしなくても、必ずその日はやってくる。だけれど。例えばアンジェリークが言わずにいたらどうなるだろう? じきにルヴァは気付く。そして1人で苦しむだろう。他にしなければならない事もたくさんあるだろうに、アンジェリークの事で苦しみ続けるだろう。
 あの人に辛い思いはさせたくない。
 言うのは、私の役目。きっとそう。
 アンジェリークは静かに目を閉じた。
 夜になると何度もそれを口にする。心からそれを理解できたつもりになっている。
 朝が来たら元の木阿弥。
(…だけど来週は)
 そろそろ限界だろう。彼がそれに気付くのも時間の問題。彼が気付く前に、言うのだ。
 もう時間がなかった。
(私、…もう間違わないよ)

 別れよう。



 アンジェリークが決意を固めてから1週間。
 先日決めたように、いつもの場所でのデートだ。
 いつからともなく、デートコースは御馴染みの場所になっていた。
 いつもの場所で集合して、いつもの並木道を歩いて、いつものレストランに行く。
 大好きなボローニャパスタとサラダを注文して。彼はいつものシーフードリゾットを。

 前は、同じ所ばかりなので飽きが来たなと思っていた。
 たまには違うところに行きたいとわがままを言った事もある。
 だが、別れに気付いてからはことさらにこういう習慣にしがみつくようになった。
 人間の心とは不思議なものだった。

 食べ終わったおとは恒例の散歩コース。
 快晴。歩くのには最適な天気だった。
 ぐるりと公園を回って、見慣れたいつもの景色に出る。
「ね、ルヴァ。あの噴水で少し休みましょ」
 言って、手を差し出した。
 彼の暖かい掌。ぎゅっと掴んだ。
 いつもと手の繋ぎ方が違うのに、果たして彼は気付いただろうか?
 ゆっくりと噴水の縁に腰掛けると、彼もそれに倣う。
 正直彼が目の前に立ってくれなくて良かったと思った。
 今から言う事を、彼の視線を受け止めながら言えるとは思えないから。
 どう切り出したらいいだろうか。
 なるべく彼を傷つけない、優しい方法で。
「…何か、私に話があるんでしょう?」
「え?」
 思わぬところからの発言に、アンジェリークは顔を上げた。
 ルヴァの視線とぶつかる。
 彼の目は無表情だった。何も読み取れない。
「随分前からおかしいとは思っていたんです。あなたが、私と過ごしている間によくぼんやりしている事」
 気付いていたのね。アンジェリークは開けかけた口を閉じた。
 どう釈明していいのか分からない。
 そして次の彼の発言はアンジェリークに精神に冷水をあびせるのに十分だった。
「私のサク」
「駄目!」
 一際高い声で、何もかもをかなぐり捨ててアンジェリークは叫んだ。
「…言っては…駄目…!」
 間に合わなかった。この人は気付いてしまった。
 愛しているわ、今もあなたを。
 もう今更そんな告白は出来る筈もない。
 私達は別れなければならないのだ。
 アンジェリークはそれ以上言葉を続ける事が出来ずにルヴァの胸に飛び込んだ。
「あなたが何を言いたいのか、知っているわ。でも見えない振りを今だけさせて。…お願い。少しの間だけでいいの」
 今この時だけは私達はれっきとした恋人同士、誰も邪魔できない。
 例えばそれは宇宙の意志でさえも。
 きっと私は何度もこの瞬間を振り返るから。
 とくとくとルヴァの呼吸が聞こえた。いつもより少し早い。
 きっとこの鼓動も何度でも思い出すと思うから。
 何度だって、いつだって、ずっと聞こえると思うから。

 ルヴァは抱き返さない。

 アンジェリークはようよう口を開いた。
「ルヴァ、私達…」


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
とにかく気分的に暗いのが書きたくてこのような形になりました。
すいません…!
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