図書館にて |
「……ああ、もぉ、全然わかんない」 図書館にて。 小さなざわめきの支配するその世界で、アンジェリークはプリントを片手に呻き続けていた。 数学の、宿題。 たった1枚のプリントのために辺りは教科書と参考書で散乱していた。 試験の度に赤点、追試のコースを辿るアンジェリークが数学好きなわけもなかった。 かといって友達に毎回宿題の解答を聞くというのも何だか自分の馬鹿を晒しているようでアンジェリークは好まなかった。 こうして、アンジェリークの孤独な戦いは続いているわけなのだが……。 早速彼女はリタイアしようかという気持ちになっていた。 問1。……だめ。教科書に載ってる公式通りにやってるのにそれっぽい答えにならない。 問2。……これもだめ。これは意味が分からない。 問3。……これまただめ。授業中に先生に似た問題教えてもらった気がするけど……思い出せない。 結局また全部だめなんじゃない。 毎回白紙に近い状態で宿題を提出している事はみんなには内緒だ。 みんなより少し、勉強の出来は良くない。だからってそういう目で見られるのはアンジェリークは嫌だった。 「1問くらい解いて出したいなぁ……」 やる気がないわけじゃない。だけどそれに反比例するかのごとく、数学の成績は伸びない。劣等感のような感情を抱きながら、アンジェリークはそれでも諦めたくなかった。 「うん。もうちょっとだけ頑張ろう」 (とりあえず適当でもいいから埋めてみよう) そのうち閃くかもしれない。アンジェリークはそう考えて、ペンを手に取った。 教科書と首っ引きにしながら、殆ど教科書を写している状態で、何とか問1を解き終わる事が出来た。 何となく解けたような気がしなくもない。明らかに間違っている解法で満足感を得、解き終わった気になったアンジェリークは問2に進む事にした。 そこで。 「おや。その問1、間違ってますよー。その……そう、7行目」 知らないうちに横に座っていた青年に急に話しかけられてアンジェリークは飛び上がるような思いがした。 「へっ?」 「その>xの上の2乗が消えてますね。それからその後の計算も少し違います。ひょっとして公式、違うの使ってませんか?」 思わず、その青年と解答とを見比べてしまう。 「……あの……どちらさま、でしょうか……?」 背はそこそこ。顔も、まぁ悪くはない。主星にはたくさんの星の人がいると言うけれど、ターバンをした男性というものはなかなかお目にはかかれない。 いくらか厳しさもあるその指摘に比べると、随分のほほんとした顔つきの男である。 勿論、アンジェリークにこんな男性と面識はない。 「あ。……あー、すいません。ついうっかり。私はルヴァと言います」 言って、にっこり微笑んでみせた。 随分大人のように見えるくせに、子供っぽくさえうつるその微笑み方。 つられて微笑み、警戒心を失ってしまう。 何となくそういう隙を作ってしまうようなところがこの男性にはあると見える。 「あの、間違ってるんですか、これ……?」 自信なさそうにそのプリントを指し示すと、彼は困ったように言った。 「数学、お嫌いですか」 「大嫌いです」 即答。 「あー、何と申しますか……やはり数学というのもこつこつ積み重ねていく事が肝要ですからねー」 こっちだってこつこつ重ねていってるつもりである。 先生たちだって口を揃えて彼と同じ事を言う。 彼はこの問1が間違っていると言った。この問題だって分からないなりに必死に解いたものだ。こつこつ続ければ何でも出来るようになる、なんて文句は所詮は世の中の人の間違った思い込みである。 「あの……正しい解法、分かりますか?」 気付けばアンジェリークはそう口走っていた。 言い出したのは彼なのだから、彼にはその言動の責任を取ってもらわなければ。 「ええ。分かりますよー。懐かしいですね、高校数学。もう何年前でしょうかねー」 さりげなくじじむさい一言を発しながら、彼はアンジェリークの差し出したプリントを受け取った。 「これでも昔は学校の先生に憧れていた時期もあったんです。私がばっちり教えて差し上げますよ」 ばっちりという言葉に何とはなしに不安感を抱きながら、アンジェリークは彼にペンを差し出した。 * 一言で言うと、彼の説明は分かり易いようで分かりにくかった。 一通りの事は、分かった。宿題の答えの出し方は当然として、今まで彼女が知らなかった事までも彼は教えてくれたし、良い復習にもなった。 だがアンジェリークの持つ数学力などまだまだヒヨっ子レベル、いわば基礎が何とか解けるレベルである。そこに彼の話す応用問題についての話は全く意味を成さなかった。 どちらかというと余計に混乱させる元にしかならなかった。 だが。それにも関わらずアンジェリークは黙って聞いていた。 彼がとても楽しそうに話すのを邪魔したくはなかったし、それに……彼は今までアンジェリークの隣にいた男の人とは明らかに一線を画していたからだ。 不思議な雰囲気の男性だった。 父親とも、もちろん違う。アンジェリークの今までいたような異性の友人とも。 彼の横顔。落ち着いているのに、何だか落ち着いてないような。 彼の背中。ここからじゃ良く見えないけれど。きっと安心できるくらい広い。顔をうずめたくなるような。 彼の指。思ったより細く長くて。その指がアンジェリークのペンで細く線を描くのをじっと見ていた。 彼の髪。さらさらしていて、触ったらきっと気持ちいい。ターバンが少し気にかかるけれど。どういった風習の惑星から来たのだろう? それに、彼の目。薄い灰色。知的な彼をそのまま表現したような色である。 「あの……」 呼びかけられて、ようやくアンジェリークは彼の事をじっと見つめている自分に気が付いた。 彼が困ったように耳の辺りに手を置いている。 何やってるんだろう私。恥ずかしい。 何か、何か言わなければ。何か言ってこの場を誤魔化さなければ。 だが口がぱくぱく動くだけで音は何一つそこから出てこなかった。 折角この人は親切にも教えてくれているのに、自分ときたらぼーっとしているだけ。 「あ……えっと……」 話を無理に違う方向に持っていこうとしたその時。 チャイムが、鳴った。 「……、あ、閉館時間だわ……」 知らないうちに人もまばらになっていた。 夕日。小さなざわめきはいつの間にかなくなっていた。 二人の長い影が伸びている。 そんな事にも気付かずアンジェリークは彼の話に耳を傾けていたのだ。 果たして集中していたのは勉強か、あるいは。 「あー。閉館時間でしたかー。時の過ぎるのは早いですねぇ」 うんうん、と1人で勝手に納得した彼は、その瞬間、何かに気付いたようにアンジェリークの方を見た。 「閉館時間……?」 その表情に先程までのぼんやりはない。 見る見る間に彼の顔は蒼白になっていく。 「いけません……! ジュリアスに怒られてしまいます! いやー全くこれではマルセルたちに示しがつきませんよ……!」 そしてばたばたと帰る支度を始めた。あっけに取られて眺めてしまう。なんて要領の悪いしまい方なんだ。 「途中まででも送ってあげられたら良かったのですが、すみません」 「いいえ、そんな」 運命の出会いだった、なんて言わない。素敵で不思議な人を半日独占できる権利があった、それだけの事だ。 きっともう、二度と会えない。そんな事分かりきってる。 それならこの気持ちは何? このざわめきは? 私はまだ、自分の名前さえ。 アンジェリークは彼の腕をきゅっと掴んだ。 「え?」 「あの……」 自分が一体何を言おうとしているのか自分にさえ分からなかった。 「また、どこかで会えますか?」 「え……?」 言う事に事欠いて、それか! と自分でも思う。 でも、このまま彼の腕を放してしまいたくなかった。 彼はおおいに照れながら、それでも微笑んだ。荷物をつめるのも忘れて、アンジェリークの手を取る。 「あなたさえ望めば、いつでも」 答えはいいえ、でもなく、そしてはい、でもなかった。 それでもアンジェリークは満足だった。 大丈夫、今なら夕日の所為でどんな顔してたってこの人には分かりはしない。 * アンジェリークが女王候補として飛空都市に来る事になったのはそれからしばらく経ってからの事であった。 守護聖ってどんな方々なのかしら、私が女王候補でいいのかしら。そんな疑問を持ちながら現女王と守護聖に謁見する事になったアンジェリークは、そこで硬直した。 そこに、いた。 あの時のように私服ではなく、より民族衣装のような格好で。そしてターバンはやはり着けたままで。 深い目の色も変わらぬまま。 (……ルヴァさん。じゃなくて、ルヴァ様と呼ばなきゃいけないのね) まさかあんなのほほんとした人が守護聖だったなんて思いもしなかった。 でもそう言われてみるとあの不思議なオーラは普通人ではない証だったのかもしれない。 あれがサクリアと言われるものの正体なのかもしれない。 アンジェリークは女王の演説そっちのけで、ルヴァの事を考え続けていた。 試験1日目。 アンジェリークは迷うことなくルヴァの執務室へと赴いた。 「こんにちは、ルヴァ様!」 「あー、あなたでしたか」 にこにこ笑顔で迎えてくれた。 これがロザリアだったなら、まずは自己紹介から始まってたんだろうな、なんてちょっと得意げな気持ちにもなった。 「あの……あの時はありがとうございました。ルヴァ様のおかげです」 「あーいえいえいいんですよそんな事は」 「本当はあの時にお礼を言うべきだったんです。恥知らずだなんてどうか思わないで下さいね」 「そんな事思いませんよー。どちらかというとあれは私の所為ですよ。私が急いでいたので言い損ねてしまったんですよねー」 そういえば、とふと思い当たり、アンジェリークは訊いてみる。 「あれからジュリアス様には怒られませんでしたか?」 「いやー、それがジュリアスには怒られなかったんですけどね、その代わりにゼフェルに嫌味を言われてしまいましたよ」 「まぁ」 実は守護聖の名前はこのルヴァと、それから怖そうなジュリアスしか覚えていないのだがそれは黙っておく。 「それにしても、あなたとまた会う事になるとはねぇ。未来がどうなるかなんて本当に分からないものですねー」 「本当ですね」 お礼も。名前さえ告げる前にこの人は去ってしまった。 だけどもう一度会えた。 ここから始められる。 運命の出会いではない、なんて思ったのを撤回しよう。 「きっともう一度会えたのは、私が望んだからですね、ルヴァ様」 アンジェリークはあの時のルヴァの言葉を思い返しながら呟いた。 望まなかった瞬間などないのだから。 ところが返ってきたのは否定から始まる言葉だった。 「いいえ、それだけじゃありませんよー」 「?」 「私もあなたに会う事をずっと望んでいたんです。また会えて、嬉しく思いますよー」 私を待っていた。望んでいた。この人も? 変に期待をしてしまう。 今度は夕日なんてないのに。顔が赤くなってしまったら、この人に分かってしまうのに。 理性でそれを打ち消しながら、アンジェリークは何とか声を出した。 「そ、それでですね、今日はエリューシオンに力を送ってほしくて……」 語尾が弱くなるのは、この際仕方がない。 「はい、分かりましたよー」 相変わらずの朗らかな笑顔。 きっとこの先の未来もこの笑顔を見る事になる、とアンジェリークは予感した。 アンジェリークとルヴァの物語は、まだまだ始まったばかり。 おしまい |
■あとがき ここまで読んで下さってありがとうございました。 散々書いたあとで「始まったばかり」ですか? …と自分につっこんでみました。 行け行け押せ押せアンジェリーク。 |
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