バカンス


 リュミエールとロザリア。今、この二人はバカンスに来ていた。
 第256代女王のアンジェリーク・リモージュが言い出した「毎年長期休暇が欲しい」との我が儘によって昨年から強制的に始まった毎年の夏休み。恋仲であるリュミエールとロザリアは連れ立って海が美しいという事で有名な観光地に来ていた。ロザリアはというと、ここにやってくる直前まで仕事が終わらないと嘆いていたが、それでも有能な補佐官らしく(少し寝不足気味ではあったが)何とか書類を作成しきって、そして今ここにいるのだった。
 こちらに着いたのがまだ早朝だったため、ホテルにチェックインは出来ず、それならばと荷物だけ預けてリュミエールとロザリアとで海へとやってきた次第だ。もう少し着くのを遅くの便にすれば良かったですね、と溜め息をついたリュミエールに、ロザリアは微かに頬を紅潮させてその言葉を否定したのだった。少しでも長く一緒にいたいから、これで良かったのだと。そう呟いてリュミエールをまっすぐに見詰めたあの瞳は、今はただ海ばかりを見ている。
 並んでゆっくりと歩きながら、ただ海岸線を見つめる二人。深く息を吸っても、潮の匂いは存外しない。それに朝もまだ早い所為か、人もまばらだ。これで昼に近付くにつれ、海水浴や日焼けに勤しむ人が増えてこの海岸線も静かには歩けなくなる。海辺でゆっくりと過ごせるのは今の時間帯だけだろう。
 砂をさくさくと踏んでいく音だけが二人を包んでいる。ここ一帯は特に潮の流れが緩やかな事で知られている。満ちては引いていく潮の音は、ここでは控え目だった。早朝の海は、色が濃いようにリュミエールには思われた。ほぼ無人の海。そこにはただ鑑賞されるためだけの海がある。
「今頃アンジェリークはルヴァ様と一緒なのかしら」
 ぽつり、呟いたロザリアの声に反応する。アンジェリークは女王でありながら地の守護聖と深い仲になっているのだ。誰もがそれを知っている。元々この休暇自体、アンジェリークがルヴァと一緒に過ごしたいがために作り出したというのは、旧知の事実だ。
「そうでしょうね。…いいのではないですか、こんな時にまで陛下の事を考えずとも」
「それは…そうなのかもしれませんが」
「ロザリアはよほど陛下の事がお好きなのですね。少し妬けます」
「…リュミエール様ったら…」
 ロザリアは帽子を目深に被り直した。照れ隠しもあるが、理由の最たるものは焼けるのが嫌だかららしい。確かに白磁のようなロザリアの肌には日焼けは似合わない。数歩先を歩いていたリュミエールは振り向くと彼女の帽子をちょっと直してあげた。リュミエールの穏やかな視線に気付いて、ロザリアははにかんだ。
「参りましょう」
「はい」
 さく、さく、さく。
 砂を踏みながら、ただ二人は歩んでいく。誰にも邪魔されない時間というのは稀有で、この夏期休暇くらいでしか恋人らしく過ごせないのが現実だ。そういう意味ではあの女王らしくない女王に感謝をしてもいいかもしれない、とリュミエールはぼんやりと考える。
「リュミエール様…わたくし今、補佐官らしくない不謹慎な事を考えておりますの」
「どんな?」
 柔らかく尋ねる。
「このバカンスが永遠に続いてくれればいいのにって、そう考えています。永遠じゃなくても、せめて気の遠くなるくらいの長さがあればいいのに。こんなにリュミエール様と静かに暮らせる時間は貴重なんですもの」
 やっぱり、不謹慎ですわね。そう呟いて顔を俯かせるロザリアに、リュミエールはふふ、と微笑んで答えた。普段「職務至上主義」であるロザリアからこういった言葉が漏れるのは珍しい。こんな日だからこそ予期せずぽろりと出た本音なのだろう。
「ならば、わたくしも同じように不謹慎だと責められなければいけませんね。…わたくしも、あなたと同じようにいつまでもこの時間が続いたら良いと思っているのですよ」
「リュミエール様と同じ気持ちでいられたなんて…嬉しいです」
 照れた響きを含んだ、ロザリアの声。斜め横を見れば、帽子で顔を押し隠しているらしいロザリアが目に入った。それで隠れているつもりなのだろうか。その微笑ましさに、リュミエールは口元が緩むのを覚えた。
「ロザリア。手を。この辺りは歩きにくいですから」
「…ええ」
 そっと右手を差し出せば、ロザリアの白くて穢れの無い手が乗せられた。
「ねえ、ロザリア?」
 そんな親しげな呼び方に慣れないロザリアは、小首を傾け、それでも笑顔で「はい?」と尋ねた。
「何でしょうか、リュミエール様」
「いっその事、このまま逃げてしまいませんか」
「え…?」
 ロザリアが、分からない、といった風に小首を傾げる。その青い瞳はリュミエールを捕らえてそこから離れない。ロザリアは何度か瞬きをしたあと、口を開きかけ、しかしリュミエールはそれを巧みに遮ると続けた。
「守護聖もやめて、女王補佐官もやめて。二人で何処かへ。滞在期間はまだたっぷりとあるのです――今から入念に準備をして逃げ出してしまえば、聖地もおいそれとは追跡出来なくなります」
 リュミエールの真剣な語りように、ロザリアの表情にはごく僅かに怯えが混じる。
「あなたと二人だけで過ごす世界は、どれだけ楽しいでしょうね?」
 聖地も、世界も、関係ない。しがらみから解き放たれる夢想。
 にこり、と微笑んでみせれば、曖昧な笑みだけが返って来た。ロザリアがいつまでもリュミエールの言葉を全て真っ正直に捉えている事に満足したリュミエールは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「冗談ですよ、ロザリア」
 途端にロザリアはほっとしてみる。
「も、もう…。リュミエール様の仰りようではまさか真剣に考えらっしゃるのかと、てっきりわたくしは」
「すっかりロザリアは騙されていましたね」
「リュミエール様が冗談なんて仰るから。…お止め下さいませ、リュミエール様には冗談なんてお似合いにならないわ」
 ふるふると首を振る、ロザリアのそんな仕草を愛しく思った。
「実は、わたくしは嘘を吐くのが大好きなのです。そうやってあなたが困った顔をするのを見ているのが好きなのですよ」
「まあ、それもご冗談?」
「ふふ、どうでしょうか」
「もう、リュミエール様は意地悪ですわ」
 リュミエールがはい、ともいいえ、とも付かない発言をするのには慣れっこなロザリアは、そのどちらとも付かない返答には構わずにそっぽを向いた。かと思うと、急に瞳をきらきらさせてリュミエールを見据えた。
「じゃあ、わたくし提案がありますの、リュミエール様」
「どんな?」
「わたくしたち、何処からからここへ逃げて来たつもりで今日から過ごしてみませんか?」
「え?」
「表通りは歩いてはいけませんの。裏通りを、いかにも怪しい素振りで駆け抜けて。二人とも似合わない変装をして過ごすんですわ。…どうかしら」
「それは…面白い考えかもしれませんね」
「そうですわ。ただバカンスを過ごすだけじゃ、つまらないですもの。何か特別なお題を決めて過ごしてみるのも面白いかもしれませんわ」
「では、早速それらしいものを探しに行ってみましょうか。いかにも胡散臭くて安っぽいものを揃える必要がありますね」
「ええ。わたくし、庶民が使うような土産物店に入るのは楽しみですの。楽しみですわ」
「ひょっとして、ロザリア、それがしてみたいだけなのでは…?」
「い、いえ、違いますわ! あくまでも逃亡らしくするためですわ!」
 痛いところを指摘されて、途端に赤くなるロザリア。忍び笑いを堪えると、リュミエールはロザリアの手をそっと、けれど逃げられない強さで握り直すのだった。
「さあ、参りましょうか、ロザリア。…わたくしたちのバカンスは、まだ始まったばかりなのですから」
「…はい、リュミエール様!」

晴れた空の下で。
ふたりきりのバカンスは、今、ようやく始まったばかり。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
今回はリュミロザ布教に走りました。
少しでもリュミロザをいいなと思って下されば幸いです。
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