ちいさな出発


「――おや、ロザリア」
 穏やかな呼び掛けに、ロザリアは本棚から目当ての本を抜き出しながらもそちらを向いた。
 図書館。外とは違う時間の流れ方をする、不思議な空間にロザリアはいた。サクリアについて調べていた折、ちょうど探している本が図書館にあると聞いて久しぶりにそこに足を伸ばした日の事だった。
 彼の姿を目で捉え、ロザリアは浅く息を吸った。図書館特有の古びた匂いに思わずむせそうになりながら、ロザリアはその水の守護聖の名を呼んだ。
「リュミエール様」
「ごきげんよう。何かお探しですか?」
「ええ、この本を」
 リュミエールにその本の表紙を見せれば、すぐに理解したらしい相槌が来る。「サクリアとその歴史」と書かれたその本は、随分とたくさんの人に読まれてきたらしく端の方が既にぼろぼろになっており、それに本自体が古いのか印刷も掠れ始めていた。ロザリアのようにスプーンやナイフ以上に重いものを持った事が無いかよわい少女が持つには、少々重みと存在感のある本だ。
「ああ、その本ですか。懐かしいですね。わたくしも守護聖着任当時にお薦めだと言われて読んだ覚えがあります」
「あなたも、これを?」
 不思議な思いがして、ロザリアはまじまじとリュミエールとその分厚い赤い装丁の本とを見比べた。過去に自分と同じようにこの本を借りたリュミエールの事を思い、ロザリアは予期せず顔が熱くなるのを覚えた。この本を選んだのは二重の意味で正解だった。
「勉強熱心ですね、ロザリア。感心です」
「ええ…。あの子には負けられませんもの」
「負けるも、何も…もうすぐ勝負は決するのではありませんか?」
 この人と試験の話はしたくなかった、とロザリアは複雑な気分になる。リュミエールが争いごとを嫌う事が第一点、そして。
 ロザリアがまもなく女王として即位する以上、このような立場でリュミエールと話し込む事が近いうちに不可能になる事をまざまざと思い知らされるからだった。
 勝つだとか負けるだとかいった勝負事を嫌うリュミエールの表情に、僅かに影が差した。ロザリアの目には、彼が勝負事を嫌うのは単に勝ち負けが原因なのではなく、勝つ事によって生じる敗者への優越感や或いは負ける事によって生じる勝者への劣等感などの一般的には負の感情とでも呼ぶべきものが勝敗によって生じるからではないかと推測している。単に負ける者を配慮しての意識なのではない。勝ったからといって敗者を見下すような人間では、やはりリュミエールにとっては嫌悪の対象にしかならないのだ。だからロザリアは努めて定期審査に勝ったからといって出すぎた真似をしないようにしていた。ロザリアも17歳、勝ったからといって浮かれないようにするには少々苦しい年頃だが、それでもリュミエールに嫌われないようにと毎日苦心して勝ったとしても喜びの感情を表には出さないように気を付けているのだった。
 勝負事に関しては努めて平静に。今も、ロザリアはその一点のみに気を配りながらリュミエールと向かい合っている。
「ええ…。わたくしが勝つでしょうね。けれど最後まで気を抜きたくはありませんもの。始めたからには徹底的にやりぬきますわ。遊び程度の気持ちでフェリシアの育成を始めたわけではありませんもの」
「なるほど、責任感の強いロザリアらしいですね」
「…」
 何と答えていいのか分からず、ロザリアは目を伏せた。
 女王になる事に疑問を抱いた事は無い。そしてこれからもそれに反感を抱く事は無いだろう。たくさんの選択肢からどれかひとつだけ、と言われたら間違い無く女王の座を取るだろう。例え同じ選択を何度繰り返しても。
 それでも、ロザリアの心の隅にはいつも微かな軋みが生じる。女王の椅子を手に入れる代わりに失うだろうものの事を考えてはいつもこのように心を痛ませる。それは例えば今眼前にいるリュミエールの事を。

 密やかに、図書館の中で会話を交わす。
 他の人たちの迷惑になるから、だから静かに囁くように会話を続けなければならない。相手の吐息さえ聞こえそうな程に近付いて、ひそひそと。くすぐられるような感触にロザリアの耳は熱さを覚えた。ただの気の所為なのに。

「そう…なのですよね。あなたはじきに女王になるのですよね。わたくしとこのように話せるのも、時間の問題なのでしょうか」
「それは、わたくしも考えていた事です」
「少し、寂しくなりますね」
「ええ…」
 既に選んだ事だ。そしてリュミエールもその選択を歓迎している。でなければ頼みもしないのに熱心にフェリシアへと力を送る理由が見当たらない。それでも、何処かで寂しいと思う気持ちは双方ともにあるらしかった。
「…わたくし自身が望んでロザリアに女王になっていただきたいと思っているのに、こんなつまらない発言をしてしまってすみません。お許し下さい」
「いいえ。…」
 ふとずしり、と本の重みを感じた。それは女王になるだろうその責任の重みか。今更ながらにその重さを感じて、ロザリアは心までもが曇るのを感じた。
「わたくしはきっと、女王になります。けれど時々考えるのです。これで本当にいいのかと、自分自身に。迷いは無い筈です。わたくしは女王になるためにここに来たのであって、遊びに来たわけではないのですから。でも…ほんの一瞬、よく分からなくなる時があるのです」
「あなたも、…なのですか?」
「聞く人が聞けば、女王失格だと責められるかもしれませんわ」
 リュミエールは静かに首を振る。
 次の言葉が出てこなくて、ただロザリアはリュミエールを見つめた。リュミエールもその視線を受けてロザリアを見つめ返す。心が痛かった。目が、熱くなる。
「何処で、間違ったのでしょうね…?」
 耳に届いたリュミエールの言葉に胸を突かれる思いがした。
 間違えた。本当に。きっと、どの道を選んでもそう思うのだ。けれどこの痛みは――リュミエールを見つめていると湧き上がる、この呼吸さえ出来なくなる程の痛みは。
「…あっ」
 その時、ずるり、と本がロザリアの手から滑り落ちた。リュミエールと会話している以上我慢していたかったのだが、とうとう本の重みに両手が耐えられなくなったのだ。本が落ちる鈍い音がして、ロザリアは慌てて屈んだ。
 少し屈んで手を伸ばせば、本に指先が届くその瞬間に手の甲に何か熱いものが落ちるのを感じた。何処から落ちてきたのかと見上げれば、そこには。

 ――リュミエールの熱い涙が。

 はっとして見上げれば、そこには狼狽するリュミエールの姿があった。自分自身でもどうしてこのような状態になっているのか、分からないらしい。何処とも付かない場所を眺めてながら、ぽたぽたと涙を流している。ロザリアは本を拾う事も忘れ、リュミエールに更に歩み寄った。触れられる程の近くに来て、その涙を拭った。リュミエールはされるがままだ。
 その時に直感した。今痛みを抱えているのは自分だけではない。リュミエールもまた、ロザリアの選択を応援しつつもそれに同じく痛みを覚えているのだ。
「すみません…すぐに落ち着きますので…」
 ロザリアの分の涙も吸い取って、この人は泣いている。もうすぐ遠くなるロザリアを想って。咄嗟に込み上げる想いを堪えきれず、ロザリアは堰を切ったように言葉を発した。
「リュミエール様、…わたくし、リュミエール様を、」
「言ってはなりません、ロザリア」
「…、」
 その言葉が漏れないようにリュミエールはロザリアの唇を自らの唇で閉ざさせた。
 一瞬だけ溶け合い、そして一瞬でリュミエールの顔が離れていく。
 その言葉は言ってはならない言葉だ。女王になるべき人間がたったひとりに思いを寄せてはならない。リュミエールもロザリアもそれを理解している。
 まだリュミエールは泣いている。溢れる涙を止める事も、拭う事も無く静かに涙を零し続けている。それを言葉も無く見つめながらロザリアは思うのだった。

(こんなもの、は)
(この人の心を縛り、弄んだ。このわたくしが)
(最初から分かっていた。わたくしが女王になる事など、最初から分かっていた。それなのにこの人に心を預けた)
(それはわたくしの罪)

 リュミエールはゆるゆると腕を開くと、そっとその中にロザリアを抱き締めた。
 抵抗無くすっぽりと収まってしまいながら、ロザリアは肩の辺りに冷たいものを感じていた。

(まもなくわたくしは女王になる…だから)
(…もう彼を想って泣く事も出来なくなる…)
(けれど…それでも、今の想いを捨てる事なんて…)

 罪を背負いながらそれでも生きていく。
 ロザリアはその瞬間に選択をした。ロザリアは彼の背中に腕を回すと、今まで言葉にしなかった思いの全てをぶつけるように抱き締めたのだった。

 そうして、第256代ロザリア・デ・カタルヘナは罪を背負った女王になる。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
悲恋ものリュミロザでした。悲恋ものが好きなものでついつい趣味に走りました。
あと一歩のところで引いてしまうのがリュミ様とロザリアだと思うのです。
この二人じゃなかったら言っちゃうと思うんですよね。
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