待って、と少女が叫ぶ。
行かないで、1人にしないで、と白衣に身を包んだ少女が叫ぶ。
兄さん。
昨日優しかったのはその所為なの……?
*
「ユウリィ」
自分を呼ぶ大好きな人の声に、笑顔で彼女は振り返った。
「兄さん。おかえりなさい」
いつもの苦痛を越えて。
今日も自分の部屋に戻ってくる事が出来た。
クルースニクの顔は安息に満たされていた。
その顔を見る度今日も生きていると実感できるのだった。
兄さんがそばにいる限り生きていけると信じている。
「ありがとう……俺が帰るのを、待っててくれたんだね」
「うん」
頭をなでなで、撫でてくれた。
今日の兄さんは何だか優しい。
疲れている所為かな、と何となく思う。
今日も朝から晩まで彼は実験室に閉じ込められていた。
実際、もう深夜も近い時間帯にやっと彼は帰ってきたのだ。
疲労に包まれて、ぼんやりする頭ではいつもと違うことをしても不思議はない。
「……ユウリィ。何か、してほしい事はあるか」
突然言われてユウリィはどきりとした。
突然何を言い出すのだろう、兄さんは。
「兄さん……?」
「大した事でなくてもいいから、何かして欲しい事、あるか? 今日くらいお前の願いを叶えてやろうかと思って」
今日の兄さんは何だか優しい。不自然なほどに。
「今日の兄さん、変だよ。どうかしたの?」
それはひたひたと迫り来る恐怖に似て。
「いや、何でもないよ……」
何でもなくはない。
きっと何かあるのだ。
いつも優しい兄ではあるけれど。
こんなふうに優しさをあからさまに口に出すような人ではない。
兄は、その優しさをいつも行動で示す人だから。
膨れ上がる不安。
でもそれよりもユウリィは兄の事が心配だった。
今日の兄さんはいつも以上に顔色が悪い。
いつも薬や実験の影響か顔色の良くないクルースニクだったが……これは異常だ。
だからなの?
こんな事を言い出すのも、調子が悪いから?
死。
ふいにその単語が浮き出てぞっとした。
違う、やめて、そんなんじゃない。
その考えを振り払うようにかぶりを振った。
考えたくなんてない、わたし達の終わりなんて。
でも。今のクルースニクはどこかにふわりと消えてしまいそうな雰囲気を醸し出していた。
「兄さん……さっき、してほしい事はあるかって言ったよね」
「……ああ」
「それなら約束して。ずっとわたしのそばにいるって。何が遭っても、わたしのそばから離れないって」
クルースニクは目に見えて動揺した。
やはり何かあるのだ。
だがクルースニクは妹にそれが何であるかを知らせるつもりはないらしい。
そしてまたユウリィは幼すぎてこれ以上の推論を進める事かなわなかったのである。
兄は、数瞬躊躇ったあと、
「……ああ。約束しよう」
「本当? 本当ね?」
「……ああ。きっとだ」
きっと、ではなくて絶対だと言って欲しいのに。
思わずむくれると、クルースニクは誤魔化すように微笑した。
そして膝を折ってユウリィと同じ目線になると、ユウリィの前髪をそっとはらい額に口付けた。
「お前を守ってみせるから、絶対に。守ってみせる」
……そばにいる、ただそう言って欲しいだけなのに。
まだむくれた顔のままのユウリィに、クルースニクはちょっと困ったように笑った。
そして突然、「いい事を思いついた」とある提案をした。
「……ユウリィ。久しぶりに、今日は一緒に寝ようか」
思いがけない提案に、ユウリィは先程のやり取りも忘れ飛び上がって喜んだ。
「本当? やった!」
眠る時にクルースニクが物語を語って聞かせてくれたり、手を繋いでいてくれたりするのでユウリィはクルースニクと一緒に眠るのが好きだった。
体温を近くに感じるから、1人じゃないと確認できる。
安心して眠れるのだった。
「枕を、持っておいで」
そう言われて。喜び勇んで自分の部屋に帰り枕を取ってきた。
クルースニクの部屋のベッドに、枕を二つ並べて。
どう考えたって狭いけれど、ぴったりとくっつけば平気。
クルースニクが先に入り、ユウリィを手招きした。
「おいで」
飛び込むように入り込んだ。
クルースニクがユウリィの首の後ろに腕を回した。
兄の熱を感じた。
「兄さん、重くない?」
「前よりも少し重くなったかな……知らない間にまた大きくなったんだな」
最近一緒に眠らなくなったのは、その辺りに原因があった。
昔は1人分のベッドでもゆうに二人で眠れたのだが、最近はユウリィも大きくなってそうもいかなくなってきたのだ。
お前がベッドから落ちるといけないから、とクルースニクは一緒に眠る事をこの頃は拒んでいた。
だからなぜ今日そんな提案をしてきたのか、ユウリィには不自然に思うところもあったが、嬉しさに負けてしまった。
「出来ればこの先も、お前の成長を一番近くで見ていたかった」
「? それどういう意味?」
クルースニクはそれには答えず、掛け布団を掛けなおした。
「さぁ、もうおやすみ」
「うん」
質問に答えてくれなかったくれなかったな、とぼんやり思う。
だがそろそろ自分がそれどころではなくなってきた。
電気を消して部屋が暗くなるとあっという間に瞼が下がってきた。
真夜中になるまで兄を待っていたのだ、眠いのも当然。
明日もいい事がありますようにと、ユウリィは祈りながら兄の腕の中でその意識を手放した。
*
朝。
差し込む太陽の光には気が付いていたがユウリィはまだまどろみの途中だった。
うとうと、としていると何かばたばたとしている音に気付いた。
誰か、複数人がこの部屋の中を出入りしている。
白い服の大人たち、と感づいて起き出すと、白い服の大人たちは慌ただしく何かをしている。
既に起床していたクルースニクは拘束されていた。
「……ッ!」
考えるよりも先に兄に飛びついた。
「嫌ッ、兄さんを連れて行かないで!」
漠然とした、もやもやとした予感。
こんな朝早くから実験をする事などついぞなかった。
何かある。
「ユウリィ……泣かないで」
ぼろぼろと泣いている事実にだって構っている暇はない。
「ユウリィ……落ち着いて聞くんだ。俺は今日、ここを出て行く。お前を、守るために」
ここを、出て行く。
だから、口付けてくれた?
だから、一緒に眠ってくれた?
二人の別れのための行動だなんて考えたくなかった。
「嫌……1人に、しないで」
「きっとすぐにまた会えるよ」
片時も離れたくない。
守ってくれなくてもいい。
ただ永遠に隣にいてほしいだけ。
どうして分かってくれないの。
白い服の大人がさぁそろそろと言っているのが聞こえた。
引き離さないでわたし達を。
抵抗虚しくユウリィは白い服の大人に捕まってクルースニクから引き離された。
兄は徐々に離れていく。
声を限りにして叫んだ。
「兄さん!兄さん……ッ!」>
クルースニクは彼女を一瞥すると一言だけ呟いた。
「……さよなら」
ユウリィの頬から一筋の涙が流れ落ちる瞬間、クルースニクの姿は永久に見えなくなってしまった。
どうか、泣かないで。
お前を守るために行くんだ。
最後の口付けは、その約束の証だから。
おしまい
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