白い白い壁。
苦い味の残る舌を気にしない振りをして、年かさの少年はまだ幼い妹に物語の終わりを告げた。
「……そして、人魚姫は泡になって消えてしまいました」
この白い孤児院には、絵本はない。
絵本はおろか子供を楽しませるような玩具は一切ない。
なぜなら、ここは孤児院であって孤児院ではないからだ。
子供を楽しませる必要性などどこにもない。
子供たちはただ従順なモルモットでいればいいだけ。
それでも、と少年クルースニクは考える。
いつかここを出る時のため、可愛い妹には自分の知り得る限りの知識を与えてあげたい、と。白い孤児院での思い出が大半を占めるような大人にはなってほしくないから。
それ以外の事も教えてあげたい。
「……めでたしめでたし」
「……それのどこがめでたいの?」
「……さあ」
その一環が、この絵本朗読だ。
ただし、白い孤児院には本はない。
だからクルースニクの記憶の中にある本を、彼は読んでいるのだ。
記憶は曖昧。
かすれて消えてしまった部分もある。
それでも、この大切な妹に伝えたいと思う。
「変な話……」
妹、ユウリィは口を尖らせる。
「泡になって消えるののどこがめでたいの」
この物語を聞かせてしまったのは間違いだったかもしれない、とクルースニクは考え始めていた。
死ぬ事で結びになるラストなど、自分たちにしてみれば不吉極まりない。
拷問のような実験、嘔吐感をもよおす薬物。
これらから逃れるには、人魚姫のように泡になるしかないと妹は考えるかもしれない。
ユウリィに人魚姫の話をしたのは失敗だった。
未来に絶望して明日を呪う子、泡になる事を切望する子にはなってほしくないのに。
「……人魚姫は、泡になる前に何を考えたのかな」
ぽつりと、ユウリィは呟いた。
「やっぱり、王子様の事かな。そうだよね、王子様のために泡になったんだもんね」
人魚姫にとっての王子様。
俺にとってのそれは、誰か。
「俺と立場は違えど……人魚姫の気持ちは分かる気がするよ」
大切なもののためにその身を捧げる気持ちを。
「俺も……泡になる前はきっとお前の事を考えるだろうから」
「兄さんっ!」
やめて、とユウリィは懇願する。
その瞳には涙の粒が浮かんでいた。
「やめて、兄さん……そんな事言わないで……!」
「……悪かった」
失言だった。
妹を思う気持ちは本物だけれど、この状況で発する台詞ではなかった。
「ずっとそばにいて」
ふわり、とユウリィが抱き付いてきた。
優しく抱き締め返してやる。
その体は腕の中にすっぽり埋まってしまうくせに、存在感があって。
ああ、天使だ、俺の天使だと場違いな事を考えた。
「ずっと一緒にいるって言って。約束して」
強張るユウリィの体を、そっと暖めて。
悲しませたくない。辛い思いをさせたくない。寂しい思いをさせたくない。
けれどいつか妹に危機が訪れた時、自分を犠牲にする決心もやはりついているのだ。
自分がたとえ泡になっても、大切な妹のためならば。
だが今はこの思いは秘密にしておこう。
今は、まだ。
「約束するよ。きっとユウリィのそばにいるから……」
「本当? 本当ね?」
縋るような目。
妹には俺しか頼る人がいないのだから。
今はただ兄として、そしてそれ以上の決意で妹を守らなければならない。
「本当だ」
「ゆびきり、げんまん。はい、約束よ」
小指を絡めて。
そう、約束をしようよ。
その後。
その約束も守られる事は、なかったけれど。
彼が泡になる前にユウリィの事を考えたかどうか、それは彼しか知らない。
おしまい
|