PIE JESU(3)


 彼女は真に愛する人の手を取ると、静かに歩き出した。花嫁衣裳のまま、待合室から抜け出して。既にユウリィには、クルースニクの事しか目に入らなかった。兄の姿以外は、全てモノクロで構わない。兄の姿は自然と輝いているから、その光だけで十分に生きていける。
 部屋を出て、外へ出て。誰の姿も無いのが不思議だったが、そんなものはユウリィにとってはもうどうでも良かった。兄以外は、もう。ユウリィは温かな兄の手に引かれながら確かな足取りで森へと向かっていく。次第に坂になっていく。彼は何処に行くつもりなのか、こんな花嫁もどきを連れて何処へ。ユウリィには予測する事さえ不可能だ。
 結婚当日の花嫁を攫ったのは、花嫁の実兄だった。そう騒ぎ立てられるのは、むしろ本望だった。10年経っても諦める事の出来ない思いが、ついに兄を攫いへと駆り立てた。それはユウリィが彼の生存を諦められずにいたゆえに絶望した事に、少し似ている。
「…大丈夫か」
 労わりの言葉に、はい、とだけ答えた。確かにロングスカートで森の中を歩き続けるのは易しい仕事ではなかったが、この人の手があればそれ程の困難とも思えない。既にドレスの裾は土で汚れ、手や腕は擦り傷だらけで、みっともない姿と成り果てていたが、歩きづらそうなユウリィのために足場を確保し、その度毎に手を差し出すクルースニクの姿を見るにつけ、自分がこのような服装でいた事にかえって幸運を覚えた。兄が優しくしてくれるから。
「花嫁になる未来を奪って…すまないと思っている」
 奪う? 違う。彼はすんでの所で救ってくれたのだ。我が儘を言うのなら、もう少し早く来てほしかったけれど。いつの間にか冗談さえ飛び出そうな程舞い上がっている自分を自覚した。どうかしている。自分は攫われたも同然なのに。
 ユウリィは首を振ると、兄の謝罪を撥ね退けた。
「もう、何も言わないで…たくさんの人を傷付けても、わたしは兄さんといる未来を選びたいんです」
 深い慈愛の瞳で見つめれば、そこにあったのは複雑そうな兄の顔だった。クルースニクは嬉しさを表現するのが極端に苦手なのだ。どう喜んでいいか分からないらしい。
「それより…兄さん。何処に行くんですか?」
「着けば、分かる」
「あとどのくらいで着きますか?」
「この段も越えれば、…すぐだ」
 一際高い坂を越えると、いつの間にか高台に出ていたらしい、周囲の様子がよく見渡せた。その絶景にユウリィは感嘆の声を上げた。この森の奥に、こんな眺めのいい場所があるなんて知らなかった。足元の先がすぐ崖になっているのは少し恐怖感を覚えないでもないが、それより美しい眺めにユウリィは夢中になった。
 ハリムの近くにこんな場所があったなんて。ここに定住して10年になるが、全く知らなかった。
「なんてきれい…」
「この景色を、お前に見せてやりたかったんだ」
「…兄さん…」
 隣を見れば、そこには緊張した面持ちのクルースニクがいた。
「ユウリィ」
「はい」
 呼び掛けに応えて、彼の真正面に立つ。兄が何をするのか、ユウリィは分かっているつもりだった。それを彼が望むのなら、何だって叶えてあげたかったからそのままの姿勢で待った。
 クルースニクはユウリィのヴェールをそっと持ち上げると、その唇に口付けた。ふわり、と真綿のように軽い、一瞬だけの口付け。閉じていた目を開ければ、そこにあったのは木陰から洩れる眩い光と兄だった。霞んで、全てが見通せないのはなぜ。
「愛しているんだ…」
 思いも寄らぬ、突然の告白に。ユウリィの瞳から涙が一粒零れた。ずっとずっと欲しかった言葉だった。愛しているのは、大好きなのは、生まれてからずっと兄ひとりきりだったのを改めて思い知らされる。
 満たされている、そういう自分を認めた。自分は今満たされている。
「もう、どうなってもいい…」
 過剰の程の幸福感に包まれながら、ユウリィはクルースニクの胸の中でしばし憩うた。これ以上幸せな思いは、もう一生出来ないだろう。今まで生きてきた中で、この瞬間がユウリィの中での最良の時間なのだから。
 もう少し早くユウリィの元に現れてくれたのなら、きっと兄のためにこの服を着たのに。攫われて、二人だけの誓いを立てる事も無かっただろうに。ふと思う。きっと兄は10年間妹のすぐ近くにいたのだ。でなければこんな当日に花嫁を奪いには来ないのだろう。それにこんな秘密の場所を知っているとも思えない。クルースニクが遠くから切ない目でこちらを見る様子を想像して、ユウリィは胸が軋むのを覚えた。どちらもが待っていた。お互いを見つめ続けていた。でも自己主張出来なかった、相手を愛しているのだと、ぎりぎりになってもなお。
「兄さんは…ずっとわたしの近くにいたんですね…」
 確かめるように呟く。彼の耳には届いた筈だったが、返答は無かった。
「兄さん…?」
 不思議に思い見上げれば。ただ、クルースニクは。崖の向こう、あるいはその下ばかりを見つめていた。彼と共に歩む未来なら、崖の下でも一向に構わないとユウリィはぼんやりと思いながら、静かに目を閉じて彼の胸に頭を預けた。

「愛しています…」


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さって本当にありがとうございました。
スーパー鬱展開クルユリでした。こういう未来も有り得るだろうと。兄はきっとギリギリにならないと火の付かない人間だと思います。
こういう形でしか、ハリムにおいては妹にウェディングドレスを着させられないわけです。
BGM・「PIE JESU」サラ・ブライトマン
→WA小説へ
→home