苦痛に歪む左手、消えない痛み


「暑い…な、」
 今朝、は悪くなかった体調。起きた時に、何となく気分が悪いような気がする、と意識した程度だ。しかし、太陽が空の真ん中にまで移動してくる頃には、ロディはすっかり熱を持った病人そのものになっていた。はああ、とため息をついてみせる。息を吐き出すのさえ、苦しくて。ふいに体を動かした拍子に関節がぼきぼきと鳴った。
 ロディたちが今いるのは、空の上。空を駆けるガルウイングの中で、ロディはうとうととぼんやりしていた。操縦は自動であるゆえに特にロディがする事が無いからいいようなものの、このままではセシリア辺りにだるそうなのが気付かれてしまう。
 隣にいたセシリアが、いつもと違う呼吸を繰り返すロディを目聡く発見して問い詰めた。
「珍しいですね、ロディがため息なんて」
「ん、まあね」
 微笑んでみせたけれど、セシリアの曇った顔は晴れなかった。
「…ロディ、何だか顔色が悪くありませんか?」
「え、そうかな?」
 セシリアはロディを自分の真正面に座らせると、その冷たい手でロディの顔を挟んだ。セシリアの形の良い眉が顰められる。
「あ、やっぱり。それにちょっと鼻声ですね」
「ん…平気だよ」
「平気なものですか。調子が悪いんでしょう?」
 さすがに、セシリアにはあっという間に見抜かれてしまった。
「…う」
「誤魔化そうったって駄目ですよ。わたしには、お見通しです」
 ちょっとだけ、ロディを安心させるように微笑んで。セシリアはザックに向き直ると指示した。
「ザック、ちょっといいですか? ここの辺りで緊急着陸出来ませんか?」
「んあ…?」
「ちょっと、ザックさん…! いくら自動操縦だからって、昼寝なんてしないで下さい!」
 窘めかけて、しかし今はそんな事を論議している場合でないとセシリアは思い出したようだった。隣ではきはきと喋るセシリアを、ロディはもはやぼんやりと眺めているだけしか出来なかった。視界が霞むのを、認めているしか出来なかった。
「何かあったのか?」
「ロディの調子が、悪いみたいなんです」
「ほっとけよ。どうせ大した事じゃないんだろ」
「もう…! 急ぐ旅じゃないのはザックさんだって承知の筈。ここで、下ろして下さい。ロディの事が心配なんです」
「姫さん、あの一件以来ロディの事をやたら心配してるけどな。こいつだって一応年若いといっても渡り鳥なんだから、姫さんに心配されなくても、自分の身は自分で守れるさ」
「それは…そうですが…」
 二人の間の口論。いつもだったら、間に入って止めるのに。眉間の間に溜まる熱が、邪魔をする。とにかく、ここはひどく暑いのだ。
 それでも、ザックの発した一言が気になった。いつまでも、耳に残る。「あの一件」。ロディが本物の腕を失くしてしまったあの件までも持ち出し、彼等は口論しているらしかった。ただ、ロディは暑くて仕方ないだけなのに。
 左手を、握っては、また開いて。そうして自分のものだと確認する。触覚さえも元のままに。けれど、どこか前とは違う自分の腕。左手には、この暑さが伝わらないのだ。
「心配しちゃ、いけませんか。わたし達は仲間です。仲間が弱っている時に心配するのが、過保護だって言いたいんですか」
「だから、そういうのがロディを…ああもう分かったよッ、下りりゃいいんだろ」
 急にザックは自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き毟ると、エマに教わった通りに着陸準備に入った。セシリアはロディに歩み寄ると、ぐいと横からシートベルトを取り出してロディに巻きつけた。
「緊急着陸は危険ですから、着陸が完了するまでじっとしてて下さいね。下りたあと、すぐに村を探してそこで休憩させてもらいましょう」
「うん…」
 暑くて、既に返事するのも体力を奪われるような。そんな気分になっていた。体中が鈍い筋肉痛になったかのようだ。
 ガルウイングはゆっくりと下降してゆく。空が高くなり、地面が大きくなってゆくさまを見るでもなく、見ないでもなくロディは着陸を待った。



 無事に、着陸が完了したあと。セシリアに手を引かれてガルウイングを出たロディは、しかしそこで立ち竦んだ。
 熱の所為でなく、立っていられないくらいの衝撃に、襲われて。がくりと彼は膝をついた。あんなにも暑くてだるくて仕方なかったのに、今は悪寒が止まらなかった。
「ロディッ?! 立てないくらいつらいのですねッ?! あの村に向かいましょう、…そこで休憩させてもらえれば…」
 セシリアの指差す先を見て。見たくは無いのに、目を逸らす事さえ出来なかった。一見した所では、ただの長閑な農村。鶏や馬と生活を共にするような。
「…行けない」
「え?」
「あの村には…入れないんだ」
 最北の村・サーフ村。あの村で起こった出来事を、ロディは今日の事のように回想できる。
 何があったのか、ぼんやりとしか二人にはいまだに言えずにいる。正直に話しても、良かったのだけれど。何となく時機が掴めず、ずるずると引き摺り続けていた。
 それが、間違いだった。
 今日という日が来る事が分かっていたなら、全てを告白していただろうに。
 言えない。今更、言えるだろうか。二人に自分に対して失望してもらいたくない。例え失望しなかったとしても、二人には村人を憎んでもらいたくない。嫌な気持ちに、なってもらいたくないのだ。村人にだって、彼等の生活がある。ある意味では彼等のした事は正しかったのだ。ロディが間違いを犯したという事も、真実ではあるのだから。
「ごめん、だけど…」
「おい、お前な、こっちが心配してみりゃ勝手な事」
 ザックが怒るのも無理は無かった。続く荒げる声に、目を閉じてじっと耐えていると、聞こえてきたのはセシリアの透明な声だった。
「ザックさん、もういいでしょう。…ロディ?」
 最後の一言はロディに向かって放たれたものだった。慌てて顔を上げると、済んだ碧色の瞳とぶつかった。それがあまりにも優しげで、思わずロディはうろたえた。人々に酷い仕打ちを受けたこの場所で、母のような眼差しはあまりにも不釣合いだった。
「何かこの村で、あったのですね」
「…」
 否定も肯定も出来ず、ロディは押し黙った。続いたセシリアの声音は、驚く程慈愛に満ちていた。
「大丈夫」
「…え…?」
「もう、何にも訊きませんよ。あなたに無理強いなんて、誰もしません。誰もあなたに強要なんて。…それが必要なら、いくらだって。だって、わたし達、仲間なんですから。あなたの事がみんな心配です。でも、だからって、何でもかんでもあなたの過去が知りたいわけじゃありません。時には話したくない事だって、あるでしょう? …仲間って、話したい事を話さなければならない境地に追い込む事じゃ、無い筈です。わたしだって、ザックだって、言えない事がたくさんあります。あなただけじゃありません。どうしたって話したくないものの、ひとつやふたつくらい…」
 言葉を切って、セシリアはロディをじっと見つめた。その海の浅瀬のような青さに、ふとロディは飲み込まれそうな気持ちを覚えた。
「ここでロディに何かあった。それだけ分かれば十分です。…ここから山を越えて少し南に行った所に、アーデルハイドがあります。そこまでもう少し頑張りましょう、ロディ」
「何で…」
「え?」
 ロディの掠れた声は、セシリアには届かなくて。もう一度、ロディは声を張り上げた。
「どうしてそんなに、優しいの。優しくされても、同じだけは返せないよ…」
 どれだけどれだけ優しくされても。いつもそう、優しい人は自分を置いていく。
 つらく当たられるのが、痛くて苦しい事は知っている。けれど、優しくされるのも同じだけ苦しい。感謝も熱も、受け取るのをやめてしまった体はひどく冷たいのだ。
 つん、と左腕が痛みを覚えた。傷が治っても。治療した跡が消えても。贋物の左腕はロディの感情の揺らぎに敏感で、ふとした弾みで簡単に異常を覚える。
「優しくされたいから、人に優しくするわけじゃありませんよ、ロディ。それに誰にだって優しいでもないですもの。ロディが大好きだから、ロディに優しくしたいんです」
 ふふ、とセシリアは微笑んで見せるのだった。
「変ですね」
「…?」
「わたしはこの事を、ロディから教えてもらったのに。まさかわたしが、ロディに教える事になるなんて」
「俺が…教えた?」
「ええ。…ちょっと前に、ね」
 意味深な微笑み。その意味するところを尋ねる前に、ほら、とセシリアは手を差し出した。
「行きましょ、ロディ。南へ!」
「…うん、」
 答えるように痛みの残る左手を差し出した。ぎゅっと繋いだ掌からは、じわりとあったかい熱が伝わってきた。いびつな贋物は、熱を吸って少しだけ人間らしい左腕に戻ったようだった。霞む視界を堪えながら、ロディは立ち上がった。

 手に入れてしまった痛みからは逃れられない。どれだけつらくても、放棄する事さえ叶わない。それでも、時折訪れる優しさによって人は癒されるのだ。
 苦痛に歪む世界は無くならない。痛みが消える事は、無いけれど。
 それでも、と思うのだ。
 きっとこの掌の中に、自分達の救いがある。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
ロディセシ未満…でした。
無印では結局解決しなかったものを、色々と考えていた結果こうなりました。
話の都合上、ザックを外すわけにもいかず、セシリアとロディ二人だけの世界を作る事が出来なかったのが残念です。
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