この世界はとてもきれい


 一面の花だった。
 地平線の向こうまで果てしなく続く花畑を、笑顔を浮かべながらロディ・ラグナイトは歩いていた。その遥か彼方、花畑の向こう側から歩いてきているのだが、彼の目的地には未だに到達する気配が無かった。
 天気は言いようもなくからりと晴れていた。もうすぐ秋が終わる。細く続く真白い雲は緩やかな速度で動いていた。ふいに蜻蛉が飛んできて、ロディの横を掠めた。
 それら全てをにこやかな笑顔で通り過ぎて、ロディはほんの少し右足を引き摺りながら歩き続けている。数年前からどうも調子が悪い。歩けない程ではないものの、思い切り走るには弊害がある。
 魔族との戦いから一体どのくらいの年月が流れただろうか。秋の空を仰ぎながら、ふとそんな事を思った。今のアーデルハイドは当時の大臣だったヨハンの子孫が治めている。直接の血統ではない家系がアーデルハイド王を継ぐ事に異論もあったけれど、今はそうしたごたごたも収まり国は上手く動いているらしかった。
 セシリアの遺言だった。「これからのアーデルハイドを、どうか見守って下さい」と、言われているのだ。一渡り鳥が王家に出来る事は、そう多くない。それでも、見守る事くらいなら、と約束したのだ。先日彼女の墓参りに行った時も、いい報告だけを伝える事が出来て良かったと思う。
 空を、見上げた。セシリアとザックと、そして自分達の旅の始まりは秋だった。旅の終わりもまた秋だった。そして今、こうしてひとりで歩む季節もまた秋だった。
 最初に去ったのはザックだった。これからはミラーマを拠点にして渡り鳥としての活動をしたいのだと言っていた。一番大事な事は言わずに、それでもさりげなく匂わせる彼の未来に、セシリアとロディは手を振って笑顔で別れを告げたものだった。
 セシリアとは長く二人旅を続けていた。気の遠くなるくらい長く旅を続けた。二人の見た目の年の差がいくら大きくなろうとも、二人は全く意に介した様子は無かった。ロディの視点からはあまり気にならなかったけれど、セシリアが本当はどう思っていたのか。実際は気になっていたのかもしれない。今となってはそれを正す方法は無い。
 ともかく、何年も旅を続けたのちに、ある日セシリアが体力的・年齢的に旅を続ける事が不可能だと言ってきたので、二人はアーデルハイドに一時帰還した。ロディは涙の果てにアーデルハイドを去り、セシリアは城へと戻ったのだ。去ったと言っても時々はアーデルハイドに寄り、セシリアに謁見する事を勿論忘れなかった。時々はセシリアの私室に招かれる事もあった。二人は別たれたとはいえ、ロディにしてみたら全て幸せな時間で埋め尽くされていた。…セシリアが死亡するまでは。
 王室からの報告では、老衰であると聞いた。病気や怪我によってではないのが、ロディの気持ちをいくばくか救った。その何年かしたあと、ザックも、その奥さんも亡くなったと風の便りに聞いた。
 ロディはまたひとりになった。
 あの時一緒に旅をした大好きな仲間たちに、置いていかれたという気持ちもある。それでも追いつけない事は、自分が一番よく分かっている。自分はいついなくなれるのか。そろそろいいんじゃないかという気も、正直している。人間が生きるには、少々長過ぎる年月をこの姿で過ごしてきた。二十歳辺りから見た目の変わらなくなったこの体。人間じゃないけれど、人間によく似たもの。自嘲気味に薄く笑った。
 それでも、この姿に生まれてきた事に関してはもう後悔は無い。この姿で生まれて、つらかった事も多いけれど、その分たくさんいい経験も出来た。生まれてから、こうして今まで、全て足し算したらプラスになる。計算しなくても、そんな事分かりきっていた。
 長く歩く事数十分。ようやく目的のものを見つけ、ロディは声を上げた。
「マリエル!」
 花畑の中心に、小さな家があった。もくもくと煙を出す煙突。玄関から、ぴょこ、と飛び出す影。出てきたのは、耳が動物のように細く長く毛が生えている、少女。秋とはいえまだ暑いのに、手袋を決して外そうとはしない。
「ロディさん…! どうしたんですか、急に」
 マリエルはその独特な消え入りそうな声音でロディに呼びかけた。お互いどちらともなくにこ、と微笑みあう。
「何だか、急に昔の仲間に会いたくなって。今会えるのは、マリエルだけしかいないから」
 笑顔で言うのには、少しだけ重たい話題。ロディは直球でそれを放つと、マリエルの返事を待った。魔族との大戦の記憶。それを保持するのは、このファルガイアでは今ロディとマリエルしかいないのだった。他の仲間は、亡くなって久しい。
「そう、ですね…わたしも、ロディさんにそろそろ会いたいなって思ってました」
 ここは誰もいなくて、作業ははかどるけれど時折寂しいから。
 マリエルはそう言うと、口元に手を当ててふふ、と微笑むのだった。二人して、家の周辺の景色を仰いだ。家から真っ直ぐ伸びた小道。これを行けば、タウン・ロゼッタに辿り着く。マリエルは当時から変わらずひとりきりで、協力者はいてくれるらしいけれど基本的には一人暮らしのままだった。
 ただ、変わったと言えばその花の多さだろうか。ファルガイアの緑化運動を推進するマリエルの試みは完全に達成されているかのように、ロディには思われる。それでもマリエルはけしてエルゥ界に戻ろうとはしなかった。エルゥ界にはお兄さんだっているのに、と問うと、マリエルはそれでも決意に満ちた瞳でこう告げたものだった。
『だって、わたしの故郷はここですから。例えばひとりきりでも、わたしはここを離れません』
 それを聞いた時、ふいにセシリアの事を思い出したものだった。王女より渡り鳥としての生活の方が長くなっても、彼女は決してアーデルハイドの事を忘れたりしなかった。みんなはしっかりやっているでしょうか、といつでも気にかけていた。
 自分はそんなセシリアを、ずっと見てきた。ひとりにされてから、彼女を思い出さない事など無かった。彼女の事が今でも好きなのだ、…例え会えなくても。彼女が生涯独身を貫いた事を、いつだって自分に都合よく解釈しているのだ。
 セシリアの笑顔が、浮かんだ。
 花。あるいは、セシリアはこの永遠に続く花畑の中に本当に存在するかのように思われた。手を、広げて。いつでもロディが望む時には傍に。霞む視界に、幻想と実際とが混じりあう。
「…きれいだね、」
 ふいに洩らした一言を、マリエルは聞きとがめた。
「花がね、きれいだなって思ったんだ」
 それを聞くと、マリエルはちょっと驚いたように目を見張ったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。でも、お花はきれいなだけじゃないんですよ」
「前にも、聞いた事あると思う。きれいなだけじゃなくて強いんだよね?」
「ええ。…あの、ロディさん、うちでお茶でもいかがですか。ここで立ち話も何ですから…。あの、もし、本当にお暇があればで結構なので」
「じゃあ、お邪魔しようかな」
 あっさりと誘いに乗ると、マリエルは少しだけ頬を染めて喜んだ。



 マリエル特製のハーブティーは独特の芳香のわりにはあっさりとした味わいだった。その他にも細々とした果物などが並び、お茶という誘い文句にしては豪勢だった。
 薄い水色の紅茶に口をつけながら、ロディはぼんやりと窓の景色を眺めていた。初めてマリエルと出会った時にはまさかこれほど花畑が拡大するとは思っていなかった。砂漠化するタウン・ロゼッタの、良い抑止力になっているとロディは思った。
「コスモスが見頃なんです」
 ロディと同じ辺りに視線を向けながら、マリエルはそう呟いた。
「あとで、見に行ってみてもいい?」
「ええ勿論。ここはみんなのためのものですから、許可なんていりませんよ」
 束の間、沈黙が続いた。風にさわさわと揺れる花を、ただじっと見詰めていた。
「あの…、ロディさん、」
 沈黙を破ったのはマリエルだった。目を合わせず、何かもごもごと言いにくそうに彼女は呟いた。
「ん?」
「寂しく、ありませんか」
「え?」
「おひとりで、ファルガイア中を巡ってらっしゃるんですよね。…あの、ばかな事訊いてごめんなさい。でも。今までずっとたくさんの仲間が、ロディさんにはいたのに、今はこうしてひとりきりで。寂しく、ないですか」
「君は、どうなの」
 答えようかと思ったけれど、気付いた時には逆に彼女に問い返していた。ロディの想像通りなら。多分、ロディとマリエルの答えは同じなのだ。
「わたしは…」
「俺が寂しいって言ってたら、それよりももっとずっと前からひとりだったマリエルなんて、もっと寂しいのじゃないかな」
 マリエルは何も答えなかった。
 本当は少し寂しいけれど、自分はひとりじゃないと知っているから大丈夫と。お互いに、言葉にはしないけれどその真実に気が付いている。ひとりきりにされたって、孤独じゃない事をよく理解しているのだ。
 ロディはくいとカップを傾け、一気に飲み干すと立ち上がった。
「コスモスを見に行ってくるね。…間近で見てみたいんだ」
「あ、…はいっ。お花たちも、ロディさんに見てもらえてきっと嬉しいと思います。いってらっしゃいませ」
「うん。いってきます」
 軽く、手を振った。自由の利かない右足を、見られないように。



 可憐に揺れるコスモスは、右へ左へロディを花畑の奥へと誘う。
 どこに連れて行かれるのか。まるで分からなかった。コスモスの望むまま、東へと進んだ。地平線の向こうまで、コスモス畑は続いているように思われた。
 ずっ、ずっ、と右足を引き摺りながら進む。この分では、渡り鳥家業はそろそろ止めるべきだった。体が保たない。魔獣を倒す事すらままならない。
 心の中で決めていた。今日で終わりにしよう。今日のこの日を、ロディが渡り鳥である事を知っている人に今日の姿を見てもらって終わりにしようと。これはけじめなのだ。
 生涯続けてきた渡り鳥と、ここで決別する。ただのロディになるのだ。
 渡り鳥になったきっかけや、ロディが今こうして生きるだけの動機をくれた祖父の事を思い出して、鼻の奥がつんと痛くなった。あの人は、悲しむだろうか。もっともっと自分は体を動かせる筈なのに、これしきの事でへこたれて渡り鳥をやめるなどと喚く自分を。叱ってくれたら良かったのに、既にその姿はこの地上のどこにもいないのだ。
「…っ」
 ごめんなさい。自分が言える事は、この言葉ひとつきりだった。
 溢れそうになった涙を堪えようと、上を向いた時に背中の辺りに突然気配を感じた。とても懐かしい気配。ずっと前から知っている。
 陽だまりみたいな温もり。その、優しさを。
 ぱたっ、と涙が頬にかかるのを感じた。晴れているのに、まるで雨が降っているみたいだと瞬間考えた。
「…やっと、来て、くれたの」
 ごめんなさい、と声は言った。はっきり聞こえる、幻聴じゃないとロディは首を振った。やっと、やっと、望んでいた時はようやく来てくれたのだ。
「随分待ったよ、…待ちくたびれちゃったよ、…セシリア」
 はかなげで、それでいて強い意志を秘めたその影。声。何もかもを、忘れるわけがない。
 セシリア・レイン・アーデルハイド。ロディが、ずっと前から大好きなたったひとりの人。
 どうして今になって現れるのだろう。本来ならば存在する筈のない命である。それにも関わらずロディはその事を少しも疑問に感じていなかった。
 それどころか。これで渡り鳥を辞めずに済んだと見当違いの事を考えていたのだ。
 少女の声は、言葉を再び紡いだ。お待たせしちゃって、ごめんなさい。怒ってますか?
 …少女の口調には、少しばかりのおかしみが混じっていた。
「…分かっているくせに。怒ってなんか、ちっともないよ…」
 影が地面を踏みしめ、一歩一歩と近付いてくる。あと一歩でロディと重なるという時に、少女は突然ロディの背中にしがみ付いた。
「迎えに来てくれただけで、本当に十分すぎるくらいだよ…」
 今度こそはっきり感じる、熱。眼前のコスモスが、急に眩しくなったように感じられた。光度を上げた花たち。太陽の光をそのまま反射したかのような輝き。花は、世界は、今こんなにも美しい。
「…ねえ、セシリア、」
 何でしょうか? と声は続きを促す。ロディの体にそっと回される腕。
「この世界は…、とてもきれいだね」
 そっと目を閉じた。そうしていてもよく分かる。ファルガイアは、今とても美しい。
 悲劇は終わった。砂漠化は食い止められた。長い時間がかかったけれど、最終目標に辿り着いたのだ。
ここはもう、自分達がいなくても良い世界。だから。
 少女の腕にそっと触れて、ロディは光の奔流へと、静かに身をまかせた。



 ロディとの歓談のあと、ティーカップを片付けていたマリエル。
 庭の辺りで、急にどさりと大きな音が聞こえるのが見えた。鈍い音。音からいっても、そこそこ大きくて硬くはないものが落ちた音だ。
 何かが見えるかと思って窓からそっと覗いてみるが、何も見当たらない。自分の気のせいだったかと首を傾げながら窓を離れて、そしてはっと気付いた。
 何も見当たらない筈がない。先程ロディがコスモスを見に行くと言っていたのだから。あの人の姿が、いなきゃいけない筈なのに。再び窓の外を凝視するが、やはり花以外は何も見えない。
 変ですね、と口にしながらも、また片付けに戻った。きっと何かの用事を思い出して、それで急に帰らなければならなくなったのだ。マリエルと違って、ロディは渡り鳥だし、最近はそうでなくとも人気者であちこちから依頼があるそうだから。
 マリエルは、どこかで妙だと思いながらも無理に自分を納得させると、作業に戻るのだった。ロディのカップを盆の上に置いた時、…きれいだね、と遠くから誰かが花を褒めてくれる声が、また聞こえた気がした。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
どシリアスロディセシでした。
どうしても書いてみたかった有り得るひとつの未来篇。
→WA小説へ
→home