さばくのほし/あいのきせき(8)


 その住宅は、他のものとは違って暮らせるだけの設備があった。彼はここを住処として暮らしているらしい。簡単な食事を済ませたあと、火を囲みながら二人は言葉も無くただ揺れる炎を見つめていた。どのように、この沈黙を破ってよいのかユウリィも分からなかった。訊きたい事ならばそれこそ山のようにある。生きていたのか、と一言。けれどそれは兄にも答えづらかろうと、ユウリィは決心すると違う質問をした。
「兄さんは、どうして、ここに来たんですか?」
 ぱちり、と小さく炎が爆ぜた。周りに微かな風の音しかしない所為か、それがか細いものであってもユウリィの耳にはよく届いた。クルースニクは一瞬の躊躇いのあと、ようやく口を開いた。
「ここが、俺たちの故郷なんだ、ユウリィ。…お前には分からなくても、俺の中には思い出がある。父や母に話してもらった思い出。いつかはきっと、ここに帰ってくるのだと耳が痛くなる程聞かされた。…今じゃ、ここはこうして滅びてしまっているが、残ったものの中からどうにか思い出を構築出来ないものかと…」
「兄さんひとりきりで、この集落をあるべき形に戻そうとしているんですね」
「ああ」
「言ってくれれば、わたしも手伝ったのに…」
「お前の手は借りない。俺は死んだものと、思っていてほしかった」
 ユウリィの体に走ったものは、衝撃以外の何物でも無かった。まさか、兄からそんな言葉を聞くなんて。言葉が出るより先に、ぽろっと涙が一粒零れ落ちた。
「死んだものと」なんて、思える筈が無い。ジュードひとりきりで生還してきた時に兄に関する事は絶望しきったと思っていた。とんだ間違いだ。自分はあれからずっとクルースニクの帰還を待ち侘びていた。
 分かっている。兄が望んでいるのは「兄に頼らない妹の姿」なのだ。だからこそ兄は自分から妹を遠ざけようとする。けれど、それが一番嫌なのはユウリィなのだ。出来ればずっと、永遠に自分の傍にいてもらいたいと望んでいる。兄だって、本当は妹の隣にいたくて堪らない筈なのに、どうしてこの人はいつもいつも自分の欲望を押し殺して生きてしまうのか。
「…ユウリィ?」
 俯いたユウリィに、クルースニクはようやくユウリィの不審さに気付いたらしかった。彼の声音に焦りが混じっている。ユウリィは慌てて口元を押さえるが、一端堰を切ったものは簡単に治まらなかった。
「兄さんは、ばかです。わたしが…どんな思いで…ッ」
「――ユウリィ、すまない…」
 欲しいのは謝罪ではない。しゃくりあげながら、それでも何とか喉から言葉を搾り出す。
「謝ってほしくなんか…ありません。だって兄さんは生きてます。これからも、ずっと。謝罪は要らないから、言ってほしいんです。兄さんはこの世界で、生きる…って」
 このファルガイアで。
 イルズベイルの悲しい地下ではなく、地表で。大地を踏みしめて生きる、と宣言してほしいのだ。ただ生きている、生きてゆくと言ってほしい。
 もうあんな絶望は、ごめんだから。
「約束しよう。俺はこの世界で生きる事を」
 兄が自分に向けてくれる真摯な眼差しに、また突き上げてくるものを感じて。ユウリィは必死にそれを堪えた。また子供のように泣きじゃくって兄に迷惑をかけたくはなかった。口元を押さえるユウリィに昔の面影を重ねたのか、クルースニクはユウリィに近づくとそっと抱き寄せた。
「お前は昔と変わらないな…。泣きそうになるといつもそんな顔をする」
 耳元に届いたのは思いがけない程優しい声。鼻に届いたのは昔より少し男性的になり、それでもなお変わらない精神を落ち着かせる兄の匂い。それこそ昔と変わらない、ユウリィを慈しんでくれる温かさ。腕も、心も、昔と何も変わらない。しばらくそうして兄の腕の中に収まっていたが、涙がひいてくるに連れてもうひとつの我が儘をこねたくなった。ふとした弾みに子供に立ち返ってしまったかのような感触。兄の腕に掴まると、ユウリィは懇願した。
「わたしは…生きている兄さんの傍にいては、いけませんか? ここに一緒にいては、いけませんか?」
「…お前は既にハリムで暮らしているのだろう。安定した生活を、捨てる事など無い」
「だって、この場所が兄さんの希望だって言うのなら、それは同時にわたしの希望でもあるんです。それなら、この場所の復興を願うのは兄さんひとりじゃない筈です」
 彼の言う事はある意味では当たっている。人も物資も豊富な世界をユウリィは捨てると言っているのだ。それでもユウリィの中には迷いなど無かった。兄にとってここが故郷であるならば、その妹にとっても、例え記憶の中に何も無くとも、それは同様に故郷と言える筈なのだから。
 故郷かもしれない。故郷ではないかもしれない。
 けれど、焦がれるその場所に、どこか似たここ。
「ユウリィ、俺の言う事を、聞いてくれ」
「嫌です」
 いくら兄の懇願でも、聞けない事だってある。引けない時もある。きっぱりと、ユウリィは拒絶した。今まで兄の言う事は全て「はい」と一言で従ってきた。それだけにこのはっきりとした否定に、クルースニクは戸惑いの表情を浮かべた。
「ユウリィ…」
「絶対に…嫌です。今、帰ったら。兄さんはきっと姿を消してしまう。わたしは、今ここにいる兄さんを本物だって分かりたいんです。これからも兄さんは生きていくって信じたいんです。だから、聞いて下さい。…わたしは、兄さんと一緒にいたいんです」
「…」
「あの時出来なかった事。それを、やり直したいんです」
「…」
「もう、離れたくないんです。あんな、オルゴールひとつ残してわたしを置き去りにしないでほしいんです…ッ」
「…」
 今なら分かる。ハリムに出没していた不審者というのは、やはり兄の事だ。そして不審者はユウリィが気付く位置にオルゴールを残した。「クルースニク・アートレイデ」の事を、過去の事として切り捨ててもらうために。ユウリィに前を向いて生きてもらうために。
 形見のように残されたそれに、嬉しさよりも切なさに胸が痛くなった。
「…わたしは、兄さんの本心が聞きたいです」
「俺…、俺は…、」
 混じりけ無しの本心。
 聞きたいのは、たったその一言だけだったのだ。もうずっと前から、その言葉だけを求めて生きていた。欲しいのは、一語だけだった。
 ようやくそれを、ユウリィは掴んだのだった。

「俺も、ユウリィと一緒に生きてゆきたい」

 どきんと心臓が跳ねた。潤む視界の中で、こちらを真摯な目で見つめる兄の姿があった。彼の言葉に、嘘は無い。その快さに、ユウリィは天にも昇れそうな気持ちになる。いつか幽閉されていたあの地獄のような場所を思い出す、けれどここにはもう悪夢は無い。
 彼が差し出した手を、ぎゅっと握った。予期せぬその手の冷たさに、ユウリィは小さく声を上げた。悪夢はここには無い、あるのはその残滓だけ。薬を服用する事は二度と無くとも、その副作用からはきっと死ぬまで逃げられない。彼の手はいつまでも冷たい。
 そんな人を、自分は心から求めていたのだ。それでも、大好きな人が傍にいる。手を繋いでくれている。ユウリィは満足だった。
 これから二人で、この廃棄された村を盛り立ててゆく。30年前の記憶を保持したまま、いつかこの村に帰ってきてくれる人もいると信じて、兄と二人でゆっくりと。

 わたしの欲しいものは、ここにある。

 長い、長い時間をかけてようやく巡り合えた、ただひとりの大好きな人。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
EDムービーでちらっと見える人影が砂の中に消えていく、あのシーンをこねくりまわして書きました。
最初は愛の守護獣ラフティーナを出す予定でした。題にその名残があります。
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