ワルプルギスの夜(3)


女王の執務室を辞してから。ロザリアは長い回廊を、出張準備のために自らの私室に行くべく真っ直ぐ歩いていた。無人の回廊に、かつ、かつ、とヒールの音だけが響く。
アンジェリークは夢、と言った。その意味するところは分からない。そもそももう「夢」という単語の意味すらもう既に分からない。
前を向く事を止めたロザリア・デ・カタルヘナには、もはや夢を語る資格を持たない。何処かで何かを間違い、結果としてこの聖地で女王補佐官などをやる事になってしまった、その擦り傷だらけの過去の事を、彼女は思い返していた。



それはロザリアとアンジェリークが女王候補だった頃に遡る。
親の期待に両肩を重くさせていたロザリアが出会ったのは、ひとりの少年だった。それは、「女王になる」という言葉と夢しか持たなかったロザリアに新しい可能性を見せてくれたのだ。何も知らぬ無知な自分に道を、世界を、見せてくれた。閉ざされた世界にいた自分は、眩しい笑顔に、確かに癒されたのだ。
こんな優しさを、自分は知らなかったから。彼の無垢な感情に、どれほど心揺さぶられたか分からない。

初恋だった。

まともに口も聞けずに終わった恋だった。やっと口から搾り出せたのはいつだって憎まれ口。彼にはきっと、疎まれていた。だってどう接していいのかわからなかった。自然な人とのかかわり方を、もうずっと何年もしていなかったから。

殆ど溺れるように、ロザリアはその眩しさに吸い寄せられた。
結果はこの通り。恋愛どころか、女王としての地位すら手に入れられなかった。

何がいけなかったのだろう。今でも時々考える。彼の事はそれはそれとしてきっぱり諦め、女王としての道を歩めば良かったのか。女王に固執する事など止め、早々に彼との道を歩めば良かったのか。
…どちらを選んだとしても、どのみち手に入らなかった。そういう気はしているけれど。
自分では敵わなかったのだ。



回廊の角を曲がろうとした時に、反対側から来た人物と危うくぶつかりそうになった。慌てて後ろに飛び退く。ゆらり、と、相手の結った長い金髪が空中を泳いだ。
あ、と思う。眩しい。
「あれ、ロザリア?」
そこにいたのは、植木鉢を抱えていたマルセルだった。出くわす相手が悪すぎる。加えて何もこのタイミングでなくても。彼は植木鉢を抱え直すと、尋ねた。
「さっきのって、オリヴィエの件?」
アンジェリークとの事を言っているのだと気付き、目を伏せながら答えた。
「ええ」
「ロザリアが担当になったんだね」
「ええ」
「頑張ってね」
「…ありがとう」

にっこり、太陽みたいな明るさで彼は笑った。
あれから随分経つけれど、彼の笑顔を前と変わらず眩しく感じた。
――でも、その変わらなさが、遠く感じてしまって少し寂しい。

「それじゃ、僕もう行くね。これを陛下にお届けしなくちゃいけないんだ」
「そう。大変なのね。お疲れ様。わたくしも行かなくては」
「うん。バイバイ」

一度も振り返らず、ぱたぱたと小気味いい足音をさせながら遠ざかっていくマルセルを、気付けばロザリアは見えなくなるまで見送っていた。



最終的に、その彼が選んだのはアンジェリークの方だった。当時試験としてはアンジェリーク優勢でもあった事から彼女は大いに悩んだらしいけれど、いかにも彼女らしい斬新な形によって悩みを回避した。
一旦は女王になる事で、法に手を加え女王になっても恋を得られるようにしたのだ。そうする事で、アンジェリークは全てを手に入れた。女王も、恋も。
アンジェリークの事を恨んでいないといったら嘘になる。けれどそれ以前に分かっていた。例えアンジェリークがその場にいなかったとしても、彼はロザリアを選ばないという事を。何か特別な気持ちを感じていたのは、本当にロザリアの方だけだったのだ。
そして、夢破れたロザリアは女王補佐官という地位に甘んじている。試験に破れた今、どの面下げてカタルヘナ家に戻れるだろうか。名家の顔に泥を塗るわけにはいかなかった。眩しい人の顔を見るのはつらいけれど、親の世間体を考えればこれ以外にロザリアが取れる未来は無かった。幸いにして、自発的に補佐官を望んだのではなくアンジェリークが補佐官にと強く誘ってくれたのでロザリアやその家族の面子はこれ以上潰されずに済んだのだ。
そして現状、それに甘える形で今も聖地に居座っている。

夢は静かに破れゆく。
そうしてロザリア・デ・カタルヘナは知る。努力と結果は必ずしも結びつかないものだということを。17歳にして初めて知った挫折は、ロザリアの心に重く圧し掛かった。

その重い荷物を、今もロザリアは両手いっぱいに抱えている。



補佐官の執務室に戻ってきて、あたふたと荷物をまとめながらもロザリアの記憶の端々に浮かぶのは、アンジェリークや、オリヴィエや、そして優しかった彼の事。
わたくしが、オリヴィエに夢をどうせよと? アンジェリークが呟いていた言葉を思い出し、ロザリアは自嘲した。
夢を知らず、夢破れてここにある敗北者が人に教えられる事などない。むしろ逆なのではないだろうか。いつも自由で、気儘に振舞うあの人から、教えてもらえるだろう事はたくさんあるような気がしているが――。
夢がひとつふたつ破れた程度で、前を向いて歩くどころか足踏みすら出来なくなってしまった弱くて脆い自分が、一体何の役に立つというのだ。誰が誰を救うだって? 救ってほしいのは自分の方だ。全てにおいて他者に負け、行くあてが無いばかりに聖地に留まり続ける惨めなこの自分の方なのだ。
感じているのは底無しの空虚さ。何もかもが感知出来ない程に透明で。オリヴィエに感じている怒りはけして純度の高いものではないのだ。
虚しいのだ。もう何もかも。
自由も、未来も、夢も、何もかも失った。ここにいるのは抜け殻のロザリア・デ・カタルヘナ。

ロザリアは荷物をまとめ終えると、足早に聖地を出て行った。オリヴィエを連れ帰る。そしてまた怠惰で憂鬱な日常が始まるのだ。ただそれだけの事。
――明日の昼には、<冬の惑星>に辿り着く。


つづく


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