自分のものだと言えたら |
日曜日。クルースニクと共に買い物に出掛けたユウリィは、市場の前で突然それが視界に入った。 手を繋いでいる、若い男女。仲睦まじい様子に、瞬間胸が痛んだ。 きっと恋人達なのだ、と思った。あるいは新婚夫婦なのかもしれない。あの甘い雰囲気に、誰もが入ってはいけない事がよく見て取れた。完全に二人の世界を作り上げている様子の二人。いちゃついているその様を、周りの人間達はどこか呆れながらもやんややんやと囃し立てていた。中には、野菜をサービスしてやるから早くこの場から立ち去ってくれ! と冗談で言う者もいた。二人の作る甘い空気に耐えられなかったらしい。 羨ましいな、とぼんやり考えている自分に気付いた。 あのように、周りに公然と「自分達は恋人同士なんだ」と宣言できるのが、羨ましくて仕方がなかった。そして周りは周りで、それをきちんと受け止めた上で冗談が言えるのを羨ましく見つめた。 「何を考えている?」 隣のクルースニクが、びっくりする程の低い声で呟いた。ユウリィにしか届かないであろう、低く小さな声。多分、同じ事を考えているのを知っていながら聞いているのだ。本当は彼だって、羨ましいと思っているに違いないのに。 「何も…ただ…」 迷うように視線を彷徨わせた。クルースニクが「ただ?」と先を促した。 「わたしも、言えたらいいのにって。そう思っただけよ」 クルースニクとは、既にただの兄妹ではない事を。時折大っぴらに宣言してしまいたくなる衝動にかられる。その後に起こってしまう事を考えたら、とてもじゃないけれど告白は出来ないけれど。 あの二人のように、手を繋いで市場を通り抜けたら何が起こるだろう? みんなびっくりするだろうか? あんなふうに、周りのみんなを呆れさせるような派手なパフォーマンスが出来る二人と、自分達とは違う。自分達があれをやったなら、今度は奇異な視線が待っているだろう。出来る筈が無かった。 「野菜、買いに行きましょ」 早くあの二人から離れたくて、ユウリィはそっとクルースニクの腕を取った。一瞬だけ。一瞬だけ取って、すぐに離す。誰からも、不審がられるわけにはいかないから。これが精一杯の、二人が公にこなせる接触なのだった。 野菜売り場に向かうと、そこにはユウリィとは既に顔馴染みとなった婦人が立っていた。恰幅の良い、朗らかな顔つきの婦人に、ユウリィはにこやかに挨拶した。 「おばさん、おはようございます」 「ああユウリィ。おはよう」 そして、ユウリィの隣にいたクルースニクにちらりと視線を向ける。 「相変わらずいい男だこと。全く、おばさん惚れ惚れしちゃうよ」 「だめですよ。わたしの兄さんは自分の顔には全然興味が無いらしいですから。褒めても何にも出ませんよ」 婦人の言葉が嬉しくて、ついいつもより笑顔割り増しで答えた。 自分の兄が褒められるのは、嬉しい。それも密かに自分が思う、「彼は顔がいい」という褒め言葉なら、嬉しくて尚更だ。普通の兄妹ならここで思い切り否定するところなのかもしれないが、生憎ユウリィ自身も彼の顔が好きで堪らないうちのひとりだ。 勿論、好きなのは顔だけでは無い。 「残念だね、おばさんがもう少し若かったらあんたに近寄るんだけど」 「…、」 どう答えたものか思いあぐねた様子のクルースニクが、困ったようにユウリィに視線を送った。ユウリィはさらりと微笑み「ありがとうございますって言えばいいのよ」と告げると、彼は素直にそれに従った。 「…ありがとうございます」 「やぁだね、冗談に決まってるじゃないか。本気にしないどくれ。…それにしても、あんた達、本当に仲がいいんだね。言葉ひとつ言うのにも共同作業かい? そこらのアベックより仲がいいんじゃないか」 「あ、アベ…」 婦人らしい、古臭いものの言い方に、苦笑を洩らしながら。それでも、その瞬間に警戒してしまうのが自分でも分かった。これ以上のこの婦人との会話は、危険だった。仲がいい、と思われているうちは安泰である。しかし、いつかは気付くだろう。ユウリィに男の影が無い事、逆にクルースニクにも女の影が一切無い事に。二人の世界が二人でのみ構成されている事に、遅かれ早かれ気付くだろう。その未来を、憂いた。 本当に仲が良い、と感心されているのが、仲が良すぎるのじゃないかと、と疑われるのは、そう遠くない未来のように思えて、ユウリィの顔は曇りかけた。それどころではなかった、と気付き咄嗟に作り笑いを浮かべた。 「あの…そう、ジャガイモ5個と。ニンジン2本下さい」 「ああ、そうだったね」 作り笑いのまま受け取り、料金を支払うと先程の会話も無かったもののようにそそくさと立ち去るのだった。 「ありがとうございましたー」 さして気にも留めていない様子の婦人の感謝の声が、背後から聞こえて。一瞬だけ振り返り笑顔を送った。それが精一杯だった。 クルースニクとユウリィは、未だ市場の中をうろうろとしていた。彼は買い物袋を持ち、彼女は買い物メモをそれぞれ持っていた。 昼近くなり、人が混み始めている市場の中を、ぶつからないようにして潜り抜けていく。 「あと必要なものは何だ?」 「あとは…、お肉、と。それからオレンジがいくつか買えればいいかな、と…」 メモと、辺りとを交互に視線を送る。どの店に何があったか、失念してしまった。この辺りは活気があり、同じような作りの店も多いため、ただでさえ迷いやすいのだ。 一瞬の隙を付かれ、誰かの肩と自分の肩とが軽くぶつかった。謝りもせずに駆け抜けていった影。最近は、ハリムも人口が多くなり色々な人が増えた。この小さな町が親切な人ばかりで構成されているわけでは無い事を、この頃よく感じるのだった。 「大丈夫か?」 肩をさするユウリィに、クルースニクが気遣わしげに訊ねた。大丈夫、と微笑んでみせたが、彼の心配は消えなかったらしい。 「お前は細いから、ぶつかったら倒れてしまうんじゃないかと心配だ」 「大丈夫よ」 「…、」 クルースニクはユウリィの肩の辺りに目を遣ると、いきなり彼女の手を固く握った。突然の事で、ユウリィは言葉が出ずに咄嗟に彼の目を見た。 いつも通り、ユウリィの事をじっと見つめている深い茶色の瞳が、そこにはあった。彼の真意が分からず、ユウリィは彼の手の温かさを感じたまま戸惑った。 「兄さん…?」 「言わなくても、出来る事はある。そうは思わないか」 誰にも彼にも、この関係は秘密にしたままでも。誰にも言わなくても、言葉にはしなくても。それでも恋人らしい事は出来るのだ、と言いたいらしい。 「でも、誰かに見られたら…っ」 そうは言いつつも、彼の手を離せない事に気が付く。離せないくらいに固く彼の手を握っている自分自身に、気が付いたのだ。離したくなんて、無かった。 彼の優しさは、温かいから。 「大丈夫だ。…こんなに混んでいるんだ、分かりはしない」 「…そう、思う?」 彼はその質問には答えず、本当は、と前置いて言葉少なに語った。 「…、俺が、お前と手を繋いで町を歩いてみたいだけだ」 「わたしも、…、」 手を繋ぐのは、理屈からじゃない。そういう欲望が、自分達の内にあるから。あの恋人達の真似がしたくて、本当は堪らないのだ。再度ぎゅっと彼の手を握って、ユウリィは微笑んだ。間近にある彼の瞳が、嬉しかった。もっともっと、近くにいたいのだ。 多分、見つからない。見つかっても、混んでいてはぐれそうだったからと言い訳すれば分かるまい。ユウリィとクルースニクは束の間見つめあうと、手を繋いだまま一歩ずつ進み出した。 手を繋いで見る世界は、いつもとはどこか違ってみえた。 言葉にはしない。行動にも、人には示す事は出来ない二人の関係。 それでも、とユウリィは考えるのだった。今この時だけは、クルースニクは自分のもので、逆もまたそうである事を。 おしまい |
■あとがき ここまで読んで下さってありがとうございました。 人前でラブラブ出来ないからこそ、家の中ではすごいに違いないニヤニヤ。 |
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