ガラス越しの逢瀬


 ユウリィさん、あとで診察室に来てくれるかな。
 クルースニクの病室に向かう途中、女先生にそう言われたのは、あれから数日経ってからの事だった。
 今更になってなぜ。と思う。
 兄は完全にとまではいかないが記憶を取り戻しつつある。もう充分ではないか。
 そう口を開きかけてやめた。
 女先生の表情があまりにも真剣そのものだったから。

 ……察するに。
 どうやらあまりいい話題ではないようだ。
 退院、という話にはどうやらなりそうもなかった。
 心のどこかでは、もうそろそろ退院して一緒に暮らせるのでは、と考え始めている。
 その思いがすり抜けていくような、そんな気がした。
 もう大丈夫だと思っていたのに。
 最近になって笑顔さえ見せるようになったクルースニク。
 あれのどこに不安要素があるというのだろう?
 それでも行かねばならないのだと、ユウリィは覚悟を決めた。

*

「やぁ。よく来たね」
 女先生はいつものハスキーな声で挨拶し、席を勧めた。
「少し、長い話になるかもしれないよ。時間、ある?」
「はい……」
「それは、良かった」
 しみじみと、そう呟いて。
 女先生はユウリィにコーヒーを手渡した。
「最近のナゲヤリ君はやたら元気そうに見えるね」
 体の調子でなく、症状の説明でもなく、女先生はひどく医者らしくない事を言った。
「わたしも、そう思います。何だか随分良くなった気が……まだ記憶は完全ではありませんが」
 同意すると、次に返ってきたのは思いもかけない言葉だった。
「ナゲヤリ君の演技には参るよ、ホントにね」
 ……演技?
 口には出さず、眉を寄せてその発言の真意を問う。
「彼のあれは演技だよ。信じちゃいけない」
 いっそ冷酷に。先生はそう告げた。
「……そんなわけ、ありません」
 演技のわけがない。
 ユウリィは先生の言葉を信じなかった。
 兄さんはそんなに器用な人じゃない、と。
 兄の事なら誰よりも自分が一番よく分かっている、そういう自負がある。
 先生に分かる事ならわたしだって気付いている筈。
 ユウリィ自身が分からない、それはそのまま真実を意味する筈だった。
「信じたくない気持ちは分かるよ……ナゲヤリ君の演技は迫真だから」
「それなら証拠を下さい……わたしが納得出来るだけの証拠を」
 モルガンは一つため息をもらすと、一つの薬をユウリィに差し出した。
「痛み止めだよ。……すごく強力な類のね」
 受け取って、心臓がぎゅっと絞られるような感覚を覚えた。
 驚愕に震える。

 この薬を、知っている。

 白い孤児院時代、制服を着た大人たちによく「痛み止め」だと言われて飲まされた。
 だがこの薬は飲みすぎれば命を縮める程の強すぎる薬だったのだ。
 何人もの子供がこれを飲まされ実験を続けさせられていた。
 ユウリィも、クルースニクも。それは例外ではなくて。
 震える指先。
 この薬の所為で死んでいった人たちを、数え切れない程知っている。
 兄は今も痛みに耐えている。
 この薬を飲む事で痛みを誤魔化し続けている。
「兄さんが……この薬をあなたに頼んだのですね」
「もう黙ってられなかったんだ……奴の体は既にこの薬が蝕みつつある。だけど、どうにもならないんだ……今痛み止めなしじゃ彼は……」
 止められないのか、もう何もかも。
 それが毒だと知ってなお、服用し続ける兄。
 なぜか。答えは明確だ。
 妹にいらぬ心配をかけぬため、そして考えられるのは、他に治療する手立てがないから。
 痛みを軽減するくらいしか、モルガンには出来る事がないのだ。
 例えばそれが彼の命を縮めたのだとしても、……もはや彼は長くない。
「……兄さん」
 ふいに唇から洩れる呟き。
 もう離れないって決めたのに。
 もうどこにも行かないで、……いつでもわたしの見える範囲にいて。
 こうしてやっと出逢えた幸せを、もう誰にも奪われたくない。
「兄さん……!」
 病室へと駆け出すユウリィを、モルガンは止める事無く見送った。

*

 クルースニクの病室に辿り着くと。
 空っぽのベッドが目に入った。
 兄らしく、きちんと整頓された部屋。
 寝ていた筈のベッドには皺一つ寄っていない。なぜ。どこへ。
 不安は焦燥へ。
 どこかに書置きがないかと目を巡らした。
 痛みは今でも兄を蝕んでいる筈なのに彼はどこへ行ってしまったのか。
 外出なんて本来はとんでもないのだ。
「兄さん……?」
 書置きなどどこにもない。

 窓の外にクルースニクがいた。
 ほっと安心するのと同時に、先程のモルガンとのやり取りと思い出す。
 やっぱりあんな言葉は嘘だ。
 こんなに元気そうな兄が……なんて。
 外で散歩出来るくらい快復しているのだ。

 ガラスの向こうの兄。
 かすかに微笑みを浮かべユウリィに手を差し伸べている。
 応える為にユウリィも手を伸ばす。
 ガラスにユウリィの小さな指が触れる。

 兄の細く長い指がガラスに触れるその一瞬前。
 クルースニクの手は空を切り、突然倒れ伏すのが見えた。
 どさりという音とともに、仰向けになったまま動かない兄。
 一瞬何が起こったのか分からなかった。
 悲鳴を上げるのを何とかこらえながら、モルガンの言葉を思い出していた。

『ナゲヤリ君の演技には参るよ、ホントにね』

「嫌あッ……、兄さんッ!」
 叫びは、彼には届かない。


つづく


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