たったひとつのわがまま


「ジュード。本当に、いいの?」
 荷物をまとめるジュードに、ユウリィは嫌味にならないように言葉を選んだ。
 病院の外で、彼等は話しこんでいた。
 ジュードは傍らに小さな鞄を抱えて。
 ユウリィは自分の服の裾を軽く掴んで。
 彼は、ハリムへと帰る用意をしていたのだ。
「うん。クルースニクはまだ起きてないけど……でも、もう僕がいる必要はないかなって」
「そんな事ない」
「そんな事あるよ。クルースニクが起きた時、僕がいたらすっごく嫌がるだろうから。それにほら、何だっけ、家族水入らずの時間も楽しみたいでしょ?」
 それを否定する事は、出来ないけれど。いてはいけない、だなんて事はない。
「でも……」
「あのね、もうさすがに帰らないとセンセイに怒られちゃう。ユウリィは帰れなくても、僕は帰らなくちゃ。僕はハリムが、帰る家だから。でもユウリィの帰る家は、……クルースニクのところだけなんだから」
 そうだ、とユウリィは思った。
 あの人を失ったら、わたしには帰る家がなくなってしまうのだ。
 わたしが兄さんを思うほどには、ジュードは兄さんを思っているわけじゃない。
 そして兄さんもまた、わたしを思うほどにはジュードの事を思わない。
 ジュードがなぜ帰りたがるのか分かった気がして、ユウリィは頷いた。
「そう……分かった。じゃあ、みんなによろしくね」
「うん。もちろん」
 えいっと荷物を抱えて。
 徐々に小さくなっていくジュードに、ユウリィはいつまでも手を振り続けていた。
 そして視界から彼の存在が消えてしまうと、少し寂しそうに病院へと戻った。

 病院に戻ると、先生が用意してくれた椅子に腰掛け、クルースニクの顔を見た。
 正直、何だかまだ嘘のような気がするのだ。
 よく出来た冗談のようだった。
 もちろん再会出来た事は嬉しい。嬉しいのだが、それだけでは終わらない気もするのだった。
 何気なくクルースニクの手を取った。
 やけに冷たい手だが、血の気は通っている。
 死んだ人間の硬い手ではない。
 その冷たい手や薄く上下に動く胸を見ているうちに、ああ生きている、生きているんだと泣きそうになった。
 これは嘘や冗談の類ではないのだ。
 クルースニクの顔をじっと見つめた。顔色は相変わらず悪い。
 腕を見た。痛々しく点滴を受けている。
 いつも、ぴんと背筋を伸ばして立つ印象を受けていたのに。
 同じ人間であるのが不思議だった。
 ふいに。
 彼の喉から音が漏れてユウリィはびくりと身を震わせた。
「……ぃ」
「……兄さん」
 うわ言?
 兄さん、苦しんでいるのですか?
 苦痛に歪む表情を見て、その痛みを代わってあげられない辛さを思った。
 思わず胸の辺りを手で押さえ、呟いた。
「兄さん、わたしも痛いです……」
 クルースニクは呻き続けている。
 居たたまれなかった。
 この場に、辛くて座っていられなくなった。
「……兄さん……ごめんなさい」
 慌てて立ち去った。
 部屋を出る一瞬、ちらりとクルースニクを一瞥したあと、ユウリィは姿を消した。

 1人になったクルースニクはまだ呟いていた。
 その顔は先程と違い安らかだ。
「ユウリィ……」

 ポートロザリアの街をふらふらと彷徨った。
 どのみちしばらくこちらに留まらなくてはならないので、アパートを探さなくてはいけない。
 金ならある。
 ジュードがユウリィに渡していったのだ。
 要らない、と言ったけれど必要だと感じていたのも本当だった。
 それを見抜いていたジュードは鋭い。
 ……本当に。
 兄さんが苦しんでいるのにわたしはなぜ逃げ出してしまったのだろう。
 辛かった。
 兄さんを思いながら安穏とした日々を過ごしていた自分が許せなかった。
 そうまで思うのなら、自分から探しに行けば良かった。
 そうしたら今兄さんはこんなに苦しまずに済んだかもしれない。
 もっと早くに退院できたかもしれない。
 こんなに意識のない状態が続く事もなかっただろう。
 そしてうわ言で自分の名前を呟く事もなかった筈だ。
 さっきはっきり聞いた。
 ユウリィ、と。
 自分が完成していて、兄さんが未完成だなんてどうして思ったりしたのだろう。
 自分の勘違いに眩暈がしそうだった。
「……わたし、ばかね」
 あの旅で、わたしは大切な仲間が出来たけれど、……兄さんは昔も今もわたし1人きり。
 わたしはたくさんの人の事を考えるようになったけど、兄さんの世界はわたし1人だけ。
 わたし1人ゆえに、兄さんはわたしよりも余程気持ちが強かったのに。
 わたしの事だけをずっと見ていたのに。
 だから、島を脱出した。妹との約束を守るため。

 そうでしょ、兄さん……?

 病院に、クルースニクのいる個室に戻ると。
 彼はすやすやと眠っていた。
 眉間に皺も寄ってない。
 ほっとした。
 椅子に座り、毛布からはみ出た彼の手を握った。
 相変わらず異常に冷たい。
 優しく手の甲を撫でながら、ユウリィは祈った。

 兄さん、最初で最後のわがままです。
 もう二度と自分の思い通りにならない事を兄さんに訴えたりしないから。
 いつも聞き分けのいい子だったでしょう?
 いつだって兄さんに嫌われたくなかったからいい子でいたかったんです。
 でももうそれも終わり……。
 わたしの事嫌いになってもいいから、だから。

 早く、目を覚まして。
 わたしのわがまま、聞いて。

 繋いだクルースニクの手がぴくり、と動いた。
 知らず俯いていたユウリィは慌てて顔を上げた。
「……兄さん」
 瞼が痙攣するように、動いて。
 羽根が落ちてくるのと同じくらいの軽さで、クルースニクはそろそろと目を開けた。
「……兄さん」
 ユウリィと同じ色の瞳が、ぼうっとここではないどこかを見ている。
 虚ろな目。
 その目を、遥か昔からユウリィは知っていた。
 執拗に繰り返される実験に耐えられない時、兄はよくこんな目をしていた。
 そしてあとから何があったか思い出せないと呟くのだった。
 あまりにも辛く、抱えるには困難な思い出はしばしばその人の中で消去されるという。
 クルースニクもその例に洩れなかったと言えるだろう。
「ここは、どこだ」
 無機質な白い天井に顔を向けたまま、クルースニクは尋ねてきた。
「ポートロザリアの病院です……」
 ほっとするのと同時に、言い知れない不安がよぎるのが分かった。
 兄さんはわたしのわがままを聞いてくれたのに。
 この不安は何?
 だって兄さんは私を見ない。
 早くその目でわたしを安心させて。
 わたしを見て、兄さん。

 クルースニクは顔をユウリィの方に向けた。
 だが彼女自身を見るわけではない。
 見ようとしないのかクルースニクはわざと視線を逸らしている。
「兄さん、気分はどうですか……?」
 その声も空に吸い込まれる。
 クルースニクは、答えない。
 失望を覚えながらも、ユウリィはめげなかった。
「あのね、兄さん、」
「君は、」
 え、と、思う。
 きみ。
 きみ、って?
 兄さんはわたしの事そんなふうに呼んだりしないのに。
「君は、……誰だい、」

 ユウリィは自分が暗闇に放り込まれるのを感じた。


つづく


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