あなたの匂い


 ぱさっ、ぱさっと洗い立ての服を2、3度広げてハンガーにかけてベランダに干していく。
 自分の分、それから兄さんの分。
 今朝、モルガン先生が「医者のする事は、患者の治療をする事。身寄りがないんならともかく、君がいるなら医者である私がこれを何とかする必要は無いよね」と言うだけ言ってクルースニクの服を渡してきたのだ。
 随分たまっている洗濯物で、どうして今までこれを放置していたのだろう、という量。
 ともかく、アパート暮らしの決まったユウリィがまずした仕事がこれだった。

 なんとはなしに、養父と暮らした数年間を思い出した。
 養父は毎日パラディンとしての仕事に没頭していたので家事はほぼ全てユウリィの仕事だった。
 料理も、洗濯も。
 出来なければ、生きてはいけない。そう思っていたから。
 現実には養父が家事を強要した事など、一度もなかったのだけれど。
 出来ない事でユウリィが疎まれる事態には、なってほしくなかった。
 嫌われたくなかった。
 やっとの事で手に入れた安息を壊したくなかった。
 結局は、そう、壊れてしまったのだけど。

 風に揺れる、兄の黒いタンクトップをぼおっと眺めた。
 自分の服でもない、養父の服でもないものを自分が洗濯しているのが変に思えた。
 兄と、静かに二人だけで暮らしていく世界。
 そういう夢想をした事もある。
 そうしたら今頃やっぱり兄さんの服を洗濯していたに違いない。
 昔からそうだったけれど、いつもきりりとしている割に生活能力が欠如しているように見えるのだ。
 どこか危ういように見えていた。
 家事全般、兄との二人暮しでもやっぱり得意になっていた筈だ。
 それが、こんな形で叶う事になるなんて。
 ユウリィのシャツの隣にクルースニクの寝巻きが干されている。
 まるで、同棲みたい。と心の外側で笑って。
 まるで、二人暮しみたい。と心の外側で泣いて。
 嬉しいはずなのに少しも嬉しくなかった。
 辛かった。
 喉が裂けそうな程辛かった。
 兄が自分の事を覚えていないのだから、こんなの共同生活なんて言えやしない。
 きみ、だなんて呼ばれ方された事無い。
 本当に忘れてしまったのか。わたしの事も、何もかも。

 一方で、これで良かったのだ、と何とか思おうとしている。
 今の兄は白い孤児院での記憶さえも失っている。
 自分の事を忘れてしまったのは言葉にならない程辛いが、あの記憶は本当に忘れてしまっていい事だ。
 今更思い出す必要なんてない。
 あの苦い記憶なしに、彼を幸せにしてあげたい。
 今度こそ。

 あんな嫌な事、覚えているのはわたしだけでいい。

 黒いタンクトップがはたはたと風に揺れていた。
 一度、タンクトップ姿の兄と抱き締めあった事がある。
 あの時は本当に嬉しかった。
 自分の気持ちが彼に伝わったのだと思った。
 きつく抱き締めた彼の体からは、いつもの彼の匂いがした。
 幼い頃に戻った気がしてほっとするような感覚になった事を覚えている。

 匂いの記憶を、ヒトは明確に覚えているものだという。
 何かの本で齧っただけの知識は本当だったと今になって思う。
 忘れたり、していなかった。彼の匂いを。
 どれだけたくさんの月日が流れても、どれだけお互いに大人に近づいたのだとしても。
 彼の胸の中に自分が埋まった瞬間、長い間自分に足りなかったものはこれだったのだと確信できた。
 忘れたり、していなかった。兄とは違って。
 ……わたしは覚えていたのに、なぜあなたはその匂いの記憶さえ。

 幼い頃の思い出には、ひょっとしたらもう二度と浸れないかもしれなかった。
 彼が記憶を取り戻すのはいつとも知れない、とモルガン先生は言っていた。
 無論、待つ覚悟は出来ている。
 そうでなければここに留まったりはしていない。だけど。
 洗いざらしの入院服に着替えているクルースニクからは、昔を思い出させるような彼の匂いはしないのだった。


つづく


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