兄は再び意識を失い未だ目覚めない。
ただ今は。
クルースニクにふれていたくて。
じっと身じろぎもせず彼の手を握り続けていた。
彼の手は熱を保ったまま。
それでも彼は目覚めない。
ユウリィを見ない。
また元に逆戻りだ。
折角自分の事を思い出してくれたというのに、折角自分の事も思い出してくれたというのに、折角ここまで辿り着いたのに。
何度も何度も繰り返しモルガンの言葉と自分の想像を思っている。
消えてしまうのか、彼は。
泡になってしまうのか。
一時はクルースニクの事を諦めさえした。ひとりで生きていくのだと決意を固めていた。
だがもう一度会えたのだ。
今なら言える、もうけして諦めないと。
もう離さないと。
何度でも祈り続けている。
お願い、死なないでと。
ふ、と。兄の瞼が動いた。
緩やかに彼の目は開かれ、ユウリィに焦点が合った。
「……あ、」
彼の深い声。彼の茶色い瞳。
その全てがユウリィ1人に注がれている。
胸に込み上げる。何かの気持ち。ぐい、と突き上げるような。
ユウリィはそっと兄に近寄り、覆いかぶさった。
彼の顔を直視していられなかった。
初めてユウリィの前で目を開けたその時より、彼の顔には、死相が。
別れは、意識すればする程こんなにも近かったのだ。
「ユウリィ……?」
ユウリィは答えない。
彼の体の温かいうちは、彼はここにいると分かるから。
ここに。こんなにも近くに。
「ユウリィ……俺は、何があってもお前のそばにいるから」
自由にならない右手で、やわやわと頭を撫でてくる。
子供の時と同じ仕草に、ふいに懐かしさと切なさが込み上げてくる。
彼は、気付いたのだ。
二人の本当の別れが近い事を。
それだけならまだしも、妹がその事実に気が付いた事をさえ直感してしまったのだ。
「そばに、いて」
囁きは届くのか。
彼の体にしがみ付きながら、ただ一つだけの願いを口にした。
顔を上げると、そこにはいつものクルースニクの生真面目さがあった。
「……ユウリィ」
消えてしまう。
だんだん遠くなる彼との距離を意識した。
消えないで。
クルースニクをこちら側に引き留めるにはもはやこれしか手段がなかった。
ユウリィは再びクルースニクの上に被さるとそっと彼に口付けた。
初めての口付けは切ない味がした。
兄は思いもかけない、という表情のまま固まっていた。
だって、そばにいてほしい。
こうした事でここに留まってくれるなら、いくらでもするのに。
兄に対してこんな、という気持ちは既に飛んでしまっていた。
クルースニクが何かを言うべく口を開けた。
だがそこから漏れたのは困惑でもなく、もちろん告白でもなく、……凄惨な呻き声だった。
「兄さんッ?!」
悲鳴に似たそれは、声を堪える歯軋りに変わった。
ぎりぎり、と叫ぶのを懸命に堪える彼。
もう、何をどうしてみても、終わりなのか。
震える指先が何よりそれを雄弁に語っていた。
「先生を……呼んで来ます!」
だが病室を出ようとしたところでぐっと腕を掴まれた。
「兄さん……ッ?!」
行かせない。そんな意志が見て取れて立ち止まってしまう。
「行くな……ユウリィ」
ごぼり、異常な咳をしながら。
息を呑んで次の言葉を待った。
「そばに、いてくれ。お前に、ふれていたいんだ」
行かなければいけない。
先生を呼ばなければ。
だけど今行ってしまったら、この人はきっと遠ざかってしまう。
行けない。
「兄さん……ッ」
時間は、限られている。そんな事、分かっている。
だから、少しでも温かい体にふれていたいのだ。
気絶しそうな程の激痛の中で、それでも妹を想い続ける兄をどうして見捨てて走れようか?
「ユウリィ、薬、を」
「薬……、」
あ、と思う。あの痛み止め。
棚の上にあったそれを慌てて掴むと彼に尋ねた。
「何錠……ッ」
「いいか、ら、」
クルースニクは眉を顰めたまま箱を奪い取りそこから5,6錠を取り出すと水もなしに一気に飲み干した。
もう1錠や2錠では効かないのだ、と頭の隅で思う。
「う……、ぐ……」
彼は肩で息をしながら、ベッドで寝返りを打った。
その呼吸が緩やかになっていくのを確認しながら、いつしかユウリィは涙を流していた。
*
10分、或いは20分か。
永遠とも思える長い時間の果てに、ようやくクルースニクの体は落ち着きを取り戻して。
今はまた深い眠りに入っている。
彼が目覚めて。そしてもう一度眠る時が。
最期の時なのだと、二人とも感づいていた。
つづく
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