夕闇が訪れる。
夕日はこの世を惜しみさえせず沈んでいく。
病院で夕焼けを見るのは初めてだった。
血のように赤い空が少しずつ白みがかっていく様子をずっと眺めていた。
隣ではそんなユウリィをただ眺めるクルースニクの姿があった。
今の彼は痛み止めを過剰に飲み痛みを散らしている状態だ。
彼は、ただ眺めている。
そうしているだけでも嬉しいというのがありありと伝わってくる程満足気な表情だ。
ユウリィが彼の視線に気付いたのか、小首を傾けて尋ねた。
「兄さん、どうかしました?」
「いや……お前も、大きくなったんだなとふと思ってね」
「兄さんの記憶は途切れ途切れですから……仕方ないですよ」
孤児院の時と、今と。
兄はその二つ分のユウリィしか知らないから。
そして多分、未来はそこには含まれない。
彼が永遠に認識出来ない世界。二人ともそれを分かっているからこそ、その事を改めて口にしたりはしない。
代わりに口にするのは他愛ない会話。但し明日の天気なんて話しても、意味がないけれど。
明日なんて本当にどうなっているのか分からない……明日には彼女は本当に天涯孤独の身になっているやもしれなかった。
だから話すのは、過去の事ばかり。
とっぷりと日が暮れて。
遠い橙色もとっくの昔に存在が確認できなくなっていた。
いつ、帰ろうかとユウリィは迷い始めていた。
まだもう少しだけそばにいたいという気持ちもある。
だが日の落ちたあとのポートロザリアはギャラボベーロ程ではないにせよ危険だった。
生活に困り薬に逃げたような連中などどこにでもいる。
ポートロザリアでもそれは例外ではなかった。
ユウリィは月が写した夜の海を眺めながら帰りの言葉を探していた。
ここからでは潮騒は聞こえない。
ベッドの縁に置いたユウリィの手にクルースニクがそっと掌を重ねた。
いつ帰ろうかと思案しているのが伝わってしまったのかもしれない、と身構える。
帰りたくない。でも帰らなければ。
「……ユウリィ」
「うん……?」
クルースニクはしばらく迷うように目を閉じていたが、覚悟を決めたようにきっと視線を上げユウリィを直視した。
「……今夜は。ここにいてくれないか」
思いもしない言葉に、目を見開いて。
でも、どこかでずっと、そう言ってくれるのを待っていた気がした。
本当は自分だって帰りたくないと思っているのを、この人が代弁してくれたという、ただそれだけの事。
心が疼いた。
ここに留まれば、帰れなくなる。
常識ある日常へは帰れなくなる。
二人は罪を犯すだろう。
けれど、ユウリィに躊躇いなんて無かった。
頷く事数瞬遅れて、うんと返事する事でユウリィは自分の意志を伝えた。
「わたし……ここにいます」
それが何を意味するのか、勿論知っている。
ただ一緒にいるくらいではすまない事を、分かった上で承知したのだ。
彼を抱き締めた。彼に口付けた。
もう、それだけじゃ足りない。
二人は罪を犯すのだ。
かたり、と席を外して顔を彼に近づける。
お互いの吐息が顔にかかる。息が耳に届き、ぞく、とするのが分かった。
手を彼の肩に置き、口付けを交わした。
クルースニクがユウリィの腰に手を置き、口付けは徐々に深くなる。
何度も交わすうちに、正気を手放しかけている事にユウリィは気付かない。
クルースニクの手がユウリィの腰から離れ胸元へと届いた。
胸のリボンがしゅるり、と音を立てて解かれる。
「……あ、」
あとはもう、言葉にならなくて。
右か。左か。
上か。下か。
内か、外か。あるいか交互か。
何も分からなくなる。
先程までは聞こえていなかった筈の潮騒が、どこか遠く所で鳴り始めていた。
*
ざぶ。ざぶ。……ざぶ。
……白い。眩しい。
2,3度瞬きを繰り返したあと、ユウリィはゆっくりと覚醒へと向かう。
彼の腕の中で安心しきっている自分を覚える。
逃亡を続けた日々の中、これ程までの安心を得られた事など無かった。
いつもどこかで緊張していた、そんな気がする。
みんなと笑っていても、みんなと食事をしていても、いつもどこかで気を引き締め続けていた。
気を緩めているのは、兄が、いるから。心からの信頼を置く人が、今隣で眠っているから。
そんな当たり前すぎる結論を導き出して、ひとりでふ、と微笑んだ。
「兄さん……」
クルースニクの胸に、顔をぐいと押し付けて。
優しい彼の匂いに包まれて。
「……すき、です」
彼はまだ起き出す気配もなく。
潮騒は、鳴り止む気配もなく。
ユウリィは彼の腕の中で、幸せな気配のままもう一度眠りにつく事を選んだ。
つづく
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