時計の音


 あの出来事から、一日も経ってないのではないだろうか。
 朝方、病院から家へと戻ったその足で。
 ユウリィはクルースニクの元へ戻る事になる。

 終わり、は一本の電話から始まった。
『……もしもし、ユウリィさん』
「モルガン先生?」
 疼く胸。モルガンの言葉はひどく低い。
 それは言葉にするまでも無く、ひたひたと近付く予感そのもので。
『来て。今すぐ。頼むよ』
「……先生?」
『何とか、手は打ってみるから。出来るだけ、彼を、生かすために』
 ぞくり。
 電話を取り落とさなかっただけ、ましだった。
 全身から血の気が引いていくのが、怖いくらいに分かった。
 来た。感じたのはそれだけだった。
「今すぐ、行きます。……それまで兄をよろしくお願いします」
 がちゃりと電話を戻すと、彼女はコート一つだけを手に家を飛び出した。

 暗雲。
 今にも雨の降りそうな気配。それに少し肌寒い。
 曇った空が不気味で。空が割れて、何かが出てきそうだ、と思った。
 きっとその何かは、兄を攫いにやってくるのだ。
 妹一人だけをこの世に残して。

 まだ、言っていない事がある。
 せめてそれを言うまでは、むざむざ攫わせない。
 せめて、それを言う時間だけでも。



 ばたん、と荒々しく病院の扉を開けると、そこには切羽詰った様子のモルガンがいた。
「先生ッ!」
「早く、彼が待ってる、」
 後ろを押されるようにして処置室へと連れられる。
 ぞくり。また走る、怖気。
 ……彼の居た部屋じゃない。
 もうすぐ彼の体に、モルガンは何かをしようとしているのだ。
 おそらくは、無用な延命処置を。
 白い扉の向こうに、クルースニクがいて。
 曇った瞳で何もない空間を見つめていた。
「兄さん……!」
 そっとベッドの傍へ駆け寄り、その手を取った。
「しっかり、して」
「ユウリィ……」
 少し、掠れた声。ああ、と気付いてしまう。
 彼はもう、この世に未練なんて無いのだ。
 うっすらと微笑みさえ、浮かべてみせる彼。
 おそらくは昨晩の出来事が、彼を満足させたのだ。
 もう他には何もいらないと思えるだけの、出来事だったから。
「兄さん、……!」
 生きて。わたしの隣で生きて。その叫びは言葉にさえならない。
「ユウリィさん、もう……いいかな、」
 ユウリィの後ろでそっと声をかけるモルガン。
 肩を掴まれて後ろに下げられる。
「ドアの向こうで。待ってて。……」
 押し込まれるように、白い扉の向こうまで追いやられて。
 ぱたんと閉められても、ユウリィは身動きひとつ出来ないでいた。



 立ち上がる事さえ、出来そうになく。
 廊下に設置された椅子に腰掛けたまま、ユウリィは放心状態で居た。
 右手が震えているのに気付き、左手で包み込んだ。それでも震えは止まらない。
 上着を着ているのに。芯からくる冷えがひどく辛かった。
 怖い。怖い。……怖い。

 ふと見上げると、扉の白さが目に痛かった。
 今まさに、彼はこの扉の向こうで苦しんでいるのだ。
 痛みと、……孤児院の白さを何度でも思い出しながら。
 その記憶の中には、果たして自分はいるのだろうか。

 壁にかけられた時計の音が。ユウリィの精神を追い詰めていくようで、嫌だった。



 2時間。いや、もっと長い時間だっただろうか。
 叫び出したくなる程の静寂の中、ただユウリィは待ち続けていた。

 そして突如として白い扉は開かれる。

「ユウリィさん、」
 はっ、として顔を上げる。そこには憔悴した様子のモルガンがいた。
「……兄さんは、」
「……最期の挨拶を、彼に、」
 いかにも歯切れ悪く、モルガンは言ってみせた。

 現実を認識出来ないまま、ふらふらとユウリィはモルガンについて歩いた。

 白いベッドの上で。意識があるのかないのか、クルースニクの虚ろな瞳はどこかを見ていた。
 しかしながらユウリィが近付くと、彼女の存在に気付いたようだった。
「ユウ、リィ……」
 彼が差し出した手を、優しく包み込んだ。彼の熱は既に伝わらない。
「聞いてほしい、事が、あるんだ、……」
「何ですかっ……」
「ユウリィ、お前を、……」

 息も絶え絶えに。
 それでも彼は何とかその言葉だけはと気力を振り絞る。
 彼の右手に力がこもった。それは痛い程。

「……愛してる、」

「……!」
 予期せぬ言葉に視界が揺れた。
 気付けば涙を零していた自分を自覚する。
「わ、わたしも……っ」
 慌てて、言葉を繋ぐが。
 クルースニクの手は急速に力を失いユウリィの掌から滑り落ちた。
 クルースニクの瞳は何度か瞬きをしたあと、完全に閉じた。

 ……そして、開かれなかった。

「嫌ぁッ……」
 堪えきれず、嗚咽と涙はあとからあとから止まらない。
「言ってない、言ってない、わたし、まだ、言ってないのに……!」

 一番大切な事を、言っていない。
 それなのに彼は。いってしまうのか。

 ユウリィはクルースニクの胸に飛び込むと、仄かに残る温かさに縋った。
 どうしても、伝えたかった。例え既に伝わらないのだとしても。
「……、好き、です、」

 どこからか、ありがとう、と言う声が聞こえた気がした。


つづく


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