あの出来事から、一日も経ってないのではないだろうか。
朝方、病院から家へと戻ったその足で。
ユウリィはクルースニクの元へ戻る事になる。
終わり、は一本の電話から始まった。
『……もしもし、ユウリィさん』
「モルガン先生?」
疼く胸。モルガンの言葉はひどく低い。
それは言葉にするまでも無く、ひたひたと近付く予感そのもので。
『来て。今すぐ。頼むよ』
「……先生?」
『何とか、手は打ってみるから。出来るだけ、彼を、生かすために』
ぞくり。
電話を取り落とさなかっただけ、ましだった。
全身から血の気が引いていくのが、怖いくらいに分かった。
来た。感じたのはそれだけだった。
「今すぐ、行きます。……それまで兄をよろしくお願いします」
がちゃりと電話を戻すと、彼女はコート一つだけを手に家を飛び出した。
暗雲。
今にも雨の降りそうな気配。それに少し肌寒い。
曇った空が不気味で。空が割れて、何かが出てきそうだ、と思った。
きっとその何かは、兄を攫いにやってくるのだ。
妹一人だけをこの世に残して。
まだ、言っていない事がある。
せめてそれを言うまでは、むざむざ攫わせない。
せめて、それを言う時間だけでも。
*
ばたん、と荒々しく病院の扉を開けると、そこには切羽詰った様子のモルガンがいた。
「先生ッ!」
「早く、彼が待ってる、」
後ろを押されるようにして処置室へと連れられる。
ぞくり。また走る、怖気。
……彼の居た部屋じゃない。
もうすぐ彼の体に、モルガンは何かをしようとしているのだ。
おそらくは、無用な延命処置を。
白い扉の向こうに、クルースニクがいて。
曇った瞳で何もない空間を見つめていた。
「兄さん……!」
そっとベッドの傍へ駆け寄り、その手を取った。
「しっかり、して」
「ユウリィ……」
少し、掠れた声。ああ、と気付いてしまう。
彼はもう、この世に未練なんて無いのだ。
うっすらと微笑みさえ、浮かべてみせる彼。
おそらくは昨晩の出来事が、彼を満足させたのだ。
もう他には何もいらないと思えるだけの、出来事だったから。
「兄さん、……!」
生きて。わたしの隣で生きて。その叫びは言葉にさえならない。
「ユウリィさん、もう……いいかな、」
ユウリィの後ろでそっと声をかけるモルガン。
肩を掴まれて後ろに下げられる。
「ドアの向こうで。待ってて。……」
押し込まれるように、白い扉の向こうまで追いやられて。
ぱたんと閉められても、ユウリィは身動きひとつ出来ないでいた。
*
立ち上がる事さえ、出来そうになく。
廊下に設置された椅子に腰掛けたまま、ユウリィは放心状態で居た。
右手が震えているのに気付き、左手で包み込んだ。それでも震えは止まらない。
上着を着ているのに。芯からくる冷えがひどく辛かった。
怖い。怖い。……怖い。
ふと見上げると、扉の白さが目に痛かった。
今まさに、彼はこの扉の向こうで苦しんでいるのだ。
痛みと、……孤児院の白さを何度でも思い出しながら。
その記憶の中には、果たして自分はいるのだろうか。
壁にかけられた時計の音が。ユウリィの精神を追い詰めていくようで、嫌だった。
*
2時間。いや、もっと長い時間だっただろうか。
叫び出したくなる程の静寂の中、ただユウリィは待ち続けていた。
そして突如として白い扉は開かれる。
「ユウリィさん、」
はっ、として顔を上げる。そこには憔悴した様子のモルガンがいた。
「……兄さんは、」
「……最期の挨拶を、彼に、」
いかにも歯切れ悪く、モルガンは言ってみせた。
現実を認識出来ないまま、ふらふらとユウリィはモルガンについて歩いた。
白いベッドの上で。意識があるのかないのか、クルースニクの虚ろな瞳はどこかを見ていた。
しかしながらユウリィが近付くと、彼女の存在に気付いたようだった。
「ユウ、リィ……」
彼が差し出した手を、優しく包み込んだ。彼の熱は既に伝わらない。
「聞いてほしい、事が、あるんだ、……」
「何ですかっ……」
「ユウリィ、お前を、……」
息も絶え絶えに。
それでも彼は何とかその言葉だけはと気力を振り絞る。
彼の右手に力がこもった。それは痛い程。
「……愛してる、」
「……!」
予期せぬ言葉に視界が揺れた。
気付けば涙を零していた自分を自覚する。
「わ、わたしも……っ」
慌てて、言葉を繋ぐが。
クルースニクの手は急速に力を失いユウリィの掌から滑り落ちた。
クルースニクの瞳は何度か瞬きをしたあと、完全に閉じた。
……そして、開かれなかった。
「嫌ぁッ……」
堪えきれず、嗚咽と涙はあとからあとから止まらない。
「言ってない、言ってない、わたし、まだ、言ってないのに……!」
一番大切な事を、言っていない。
それなのに彼は。いってしまうのか。
ユウリィはクルースニクの胸に飛び込むと、仄かに残る温かさに縋った。
どうしても、伝えたかった。例え既に伝わらないのだとしても。
「……、好き、です、」
どこからか、ありがとう、と言う声が聞こえた気がした。
つづく
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