目を閉じて、その時を待つ6 -Yulie Side


 目を開けると、そこは霧の中だった。
 霧が、家の中にまで入り込んで、伸ばした手の先さえ見えなくなっている。
 ミルク色の霧。
 もやもやとそれはユウリィの視界を阻んでいるのだった。
 変ね…、窓は閉めておいたのに霧が外から入ってくるなんて…、とユウリィはぼんやりとした意識の中でそんな事を思った。
 霧の隙間から、途切れ途切れに太陽の陽射しが洩れてきている。
 朝だ、と思う。
 既に昼夜の区別無く眠り込む事の多くなっていたユウリィには珍しく、起きたら朝だった。
 ジュードが仕事が忙しくなったとかで最近来なくなったので、自分で自分の管理をしなければならない。
 それさえも、億劫で。大概はこうして眠り込んで過ごしているのだ。

 何だか外が騒がしい。子供の声だろうか。甲高い、耳につく声が外に響いている。
 誰がチャイムを押すんだよ、様々な声はそんな事を問答しているようだった。
「…みんな?」
 愛する生徒たちだろうか。生徒たちが、見舞いに来てくれたのか。
 自分の口元に、知らず知らずの間に笑みが浮かぶのを自覚する。
 こういう時ほど、教師をやっていて良かったと思う時は無い。
 起き上がる事は出来そうになかったが、玄関に届く程度の声を張り上げる事くらいは出来る。
「開いているから入っておいで」
 わっ、と歓声。どやどやと遠慮の欠片も無く入ってくる子供たち。
「先生!」
「先生! 元気?」
「ええ、元気よ。あなたたち、大変だったでしょう。こんな霧の中」
 きょとん。子供たちの表情は明確ではないが、これ程ぴったりな表現も無い。
 生徒たちの顔さえ見えるか見えないかという程の霧なのに、彼等は何を呆然としているのだろう?
「…先生、何か変な事言った?」
「だって。今日はこんなに晴れてるのに。何言ってるんだよー」

 目が。

「…、ごめんなさい、そうよね、今日は晴れてるわよね」
 慌てて目を擦るが、見えるものは変わらない。霧時々生徒の心配そうな顔。
 目が、見えなくなっているのだ。
 この分なら、すぐにでも失明してしまうだろう。
 愕然とする。こんなに症状の進むのが早いなんて。
 信じられない、と思う一方で、何かに近付いたと満足する自分を覚えるのだった。
 この、気持ちは?
 その、何か、って。何?
「先生あのね、お花…」
 生徒の一人がおずおずとユウリィの前に立ち、花束を差し出した。見舞いの品のつもりなのだろう。
 何色なのか、判断する事は難しかったが、生徒たちの手前分からない振りは出来ない。
「きれいな色ね…、有難う。それにとってもいい匂い」
 花束を深く抱きしめると、花の匂いが鼻腔に届いた。妙にくすぐったい。
「嬉しいわ。向こうの花瓶に生けておいてくれる?」
 確かあちらの方だった。長く染み付いた経験を元にだいたいの方向を指し示す。
 生徒の一人がとことこと視界から消えるのが確認できた。
「先生、ジュードがいないけど大丈夫?」
 その躊躇いのない質問に微笑みをユウリィは浮かべた。
 十も違う子に呼び捨てにされてるわ、ジュードってば。
 ジュードの衒いの無い笑顔を思い浮かべる。誰彼構わず警戒を解いてしまうような彼の眩しい笑顔。ユウリィもそれで何度救われたか分からない。
 ユウリィにとっては、彼は眩しすぎたのだ。
 彼の事は好きだ。だが…自分はあまりにも重たいものを背負っている。彼には似合わない。居てはならない。彼の傍には。
 彼にも、自分にも、より相応しい場所がある。そしてそれは同一ではない。
「大丈夫。彼だって、お仕事だもの。仕方ないわ」
「え?」
 また、ざわつく子供たち。違和感。
「先生、どういう意味?」
「え、だって。ジュードは仕事でしばらくここには来れないと言っていたのよ」
 肥大する違和感。子供たちは何を知っているのか。自分は何を隠されているのか。
 …ジュードは何を隠しているのか。
 子供たちのうちの一人が、堪え切れなくなったようで口を開いた。
「ジュード、ポートロザリアに行くって」
「え、」
「人を探しに行くんだって、そう言ってたの聞いたよ」

 兄さん。

 自分には仕事に行くからと言って、実際はクルースニクを探しにポートロザリアまで行っていたのだ。
 ぞく、と背筋が寒くなった。

 信じていないくせに。いないのでしょう? 兄さんはどこにも。
 いないんだって、自分が一番よく分かっているのにどうして!
 それとも幽霊でも探しに行ったの? もうどこにもいない証拠を見つけに?
 なぜわたしに内緒で。嘘を付いてまで。

「ね、どこで誰に聞いたの? それ」
「えっと、アンリ師範に。村の外れで、二人がこっそり話してるの聞いたの。……悪い事だったの?」
「ううん、そうじゃなくて、」
 何かあったらユウリィを頼みます。アンリに向かって頭を下げるジュードの姿が、目に浮かぶようだった。
 手酷い裏切りのように思えた。
 いないならいない、と。いるなら、いる、と。はっきり言って欲しかった。
 こんなふうにこっそり旅立つなんて一番汚らしいやり方だ。
 それとも、…兄は本当に生きているのだろうか。
 生きているけれどユウリィに会う事は出来ないと言って隠居している彼に、ジュードは会いに行ったのかもしれない。
 どこか遠いところで望みを繋ぎ続けている自分を自覚した。
 本当はどちらだったら、自分は良いと思っているのだろう。

「…兄さん」

 呟きは遠く。子供たちには届かない。


つづく


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