目を閉じて、その時を待つ8 -Yulie Side


 覚悟は出来ていた。
 けれど、こんなに早く来るとも思っていなかった。

 目を開けたら、そこは完全な灰の中だった。
 靄、でもない。霧、でもない。灰。
 もう何も見えない。
 おそらく、ここから徐々に黒の部分が増していくのだろう。
 少しずつ、少しずつ、光を感知できなくなる。

 その想像に耐え切れなくて、ユウリィは静かに目を閉じた。
 もう、ものは見たくない。もう、ものは見ない。二度とは目を開かない。
 いつかその日がやってきても、閉じたままなら分からないから。

 目を閉じたままでいると、感覚がいつもより鋭くなるようだった。
 ユウリィはベッドの上で静かに呼吸したまま、その感覚に身を委ねた。
 小さな音も聞き取れる。家の向こうの川のせせらぎを、いつもより近くに感じた。
 微かな匂いも嗅ぎ分けられる。清潔なシーツの匂い。嗅ぎ取れる、太陽の匂い。
 川向こうにある学校の、子供たちのざわめき。それさえユウリィには耳に届くように感じられた。

 ゆらゆらと。
 現と夢の境目で、ずっと川のせせらぎを聞いていると、かたりと何かが動く音が聞こえた。
 急に現実に引き戻される気がして、ユウリィは身構えた。

 誰か、いる。

 目は閉じたまま。気配を探った。
 あの音は。家の敷板の、微妙な軋みだ。あの場所に差し掛かると、誰もがあそこで音を立てる。
 この誰かは、既に家に入り込み隣の部屋にまで足を踏み入れている。
 目が自由にならない自分ひとりで、どこまでこの侵入者に抵抗できるか分からない。けれど。
 かたり、また音が近付いて。その誰かがこの部屋に入ってくるのがはっきりと感じられた。

 相手には、自分が眠っているように見えたのかもしれなかった。
 その人は物怖じした様子はなく、こちらにすたすたと歩み寄ってくる。
 その気配が近付くにつれ、ユウリィは体中からじわりと汗が滲むのが分かった。

 この、気配、は。

 喉から何か声が出そうで、しかしその音は囁きにさえならなかった。
 ジュードではない。…悪漢でも、ない。
 自分が何よりよく知る、心の中に今もその姿を留める人に違いなかった。
 何も言わず静かに佇む姿が、目が使い物にならなくてもよく見えた。

「…、兄さ…ん?」

 空気が、変わった。
 その人は歩みを止めると、足早に去ろうとした。
 それこそが、図星と言っているようなものだった。彼は兄だ。
 見えなくても。話さなくても。分かる、彼は兄だ。
「兄さん…ッ!」
 手を伸ばして、反射的に目を開けた。霧の中に見える背の高い影。
 段々遠くなる。
 指先でも彼には触れられない。彼の影が次第に見えなくなる。
「兄さん、行かないで…!」
 ぐらり視界が揺れて。思い切り手を伸ばした拍子に、ベッドから落下したのだ。
 一瞬ののちに体中に走る鈍い痛み。どこをどうぶつけたのか、自分の目では確認できない。
 低く呻く。それでも、彼を引き留める事は忘れない。
「待ってッ、兄さ…ッ」
 ごぼ、と喉の奥から音が漏れた。喉を酷使して叫んだ所為か、突き上げるような咳に彼女は彼に向けて差し出した手を口元に当てた。
 咳は、止まらない。
 掌の、じっとりと濡れているような感触を覚えた。見えないけれど、きっとそれは真っ赤なのだ。
 ふと、咳の感覚が緩んだ。彼が優しく背中を撫でてくる。その度に、少しずつ楽になっていく。発作が緩んでいく。薬を飲むより、それは的確な処置と言えた。
 思わず寄りかかると、影は急にユウリィを抱き上げた。体が宙に浮いて不安定になるのと同時に、背中に腕が回されて非常時にも関わらず胸がときめくのを覚えた。
 不安と安心が同時に胸の中に沸き起こる。
 ふわっ、とベッドの上に下ろされる。霧の中で、彼の影を大きく感じた。
 下ろされたあとも遠くに行かないところを見ると、そばにいてくれるのだろう。
 ぎゅ、と見当をつけて手を伸ばして彼の服の端を握った。どこにも行かないで、そういう意志が伝わったのか、彼がその手の上に自分の手を重ねた。
 仄かな熱を感じた。この人もまた生きているのだ。
 彼が兄であるのなら。
 突然帰ってきた事を詰ったりなどしない。どうして今更、などと言ったりしない。

 聞きたい事は、ひとつだ。

 上手くまとまらない考えを、それでもひとつひとつ広げていく。
「教えて、兄さん…?」
 答えは無い。それでも、聞かなければならないのだ。
 自分が正しかった事を。生きていて、良かったと。
 誰よりもこの人に認めて欲しいのだ。
 自分よりたくさん苦しんだこの人が「正しかった」と言うなら、自分もそうだとようやく納得出来るのだ。

 生きる事は苦しかった。辛い事ばかりだった。
 苦い薬ばかりが思い出される過去。そんな過去しか持たなくても、生きていて良かったと思いたいのだ。
 生き抜いた事にユウリィの価値はあった。諦めない事に意味はあった。そう思いたいのだ。
 …そのためには、この人の力が必要だった。

「言って…? ユウリィは間違ってなかった、って、言って…?」

 生き抜いてみせた。それが正しいと思ったから。
 だが実際は、ここでこの命は終わろうとしているのだ。
 あの時頑張らなくても。同じ道を、自分は辿ろうとしている。
 あの時打たれた薬で自分は死ぬのだ。
 それでも。死んでしまう前に、聞きたい。言ってほしい。

 お前はいつも正しかったよと。

 大きくてすらりとした長い影が。ゆらり、と動いた。
 ユウリィはじっとしたまま答えを待ち続けた。そして、影はゆらり、とまた動いて。

 答えを聞いたような気がした。
 聞こえなかったかもしれない。分からない。
 何かぼそぼそとした声が聞こえて。
 その言葉の意味を認める前に、ユウリィは再び眠りの世界へと引き摺られていった。


つづく


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