逃亡者・1


 逃亡者。
 私は、それになりたいの。
 お願い、もう、私を逃がして。



 閉塞していく何か。
 壊れていく何か。
 明確なビジョンなど一つも見えない。

「陛下?」
 執務室にて、ひとりアンジェリークが暗い暗い思考に沈んでいると、ロザリアが声をかけてきた。慌てて用意しておいた言い訳を口にする。思索に耽るのを、出来れば邪魔してもらいたくは無かった。なおかつ、その相手がロザリアというのが最悪だった。
「……ごめんなさい、最近ちょっと調子が悪いみたいで」
 慌てて取り繕うと、ロザリアはその形の整った眉毛を顰めた。
「大丈夫なの? 頼むわよ、女王のあなたが倒れたら冗談では済まされないのだから」
「うん、分かってる。ごめんなさい」
「いいから、もう、今日は休んで」
「……いいの? 仕事、たまってるんじゃないの?」
「今無理させるべきじゃないわ。何だか、顔色も悪いみたい」
 アンジェリークの発言は全て真っ赤な嘘であったが、ロザリアはどう深読みしたのかそんな事を言ってきた。調子が良かろうが悪かろうが、今のアンジェリークには真実どちらでも良かったが、これ幸いとばかりに便乗する事にした。
「ん……ありがと、ロザリア。今日はもう寝るね」
「それがいいわ。あとは、まかせて」
ロザリアに私室まで送ってもらって、別れの挨拶を済ませて。
迷うことなくアンジェリークはベッドに飛び込んだ。
「……嘘なのに。簡単に騙されないでよ」
枕に顔を押し付ける。
ふう、とあまりにも長いため息をついたあと、彼女はベッドに仰向けになった。
この天蓋つきのベッドでは天井が見えない。
天蓋は意外に低くて、何か圧迫するような感覚がする。まっすぐこちらに落ちてきそうな。
ふいに胸が苦しくなって、アンジェリークは胸の辺りを抑えた。
まただ、また。
息苦しい。

 ……この説明のつかない息苦しさは、実は随分前から続いていた。
 この意味不明な症状が始まったのはいつ頃だっただろうか。
 思い出せないが、この症状にはっきり気付いたのは、この前の会議の場でであった。
 あの時、守護聖たちは口々に意見を言い合っていた。
 アンジェリークは彼らの意見にじっと耳を傾けていた筈だった。
 そこでジュリアスから「陛下はどうお考えですか」と言われ、彼と目を合わせた瞬間に、今みたいに胸が苦しくなったのだ。
 原因は色々あるだろうとは思う。疲労だとか、それらしい単語を並べる事だって出来る。しかし一番大きな理由はそんな事ではない。ジュリアスが自分を全くの女王扱いしてきたのが、嫌でたまらなかったのだ。

 とても不快だ。
 女王候補の時はこんなふうに息苦しくなる事など無かったのに。
「候補、か」
 あの時は、良かった。
 毎日のほほんと生きていた。
 候補だからといって女王になる事など無いと認識していた。
 きっと、自分より優秀なロザリアが女王になると確信していた。
 だから毎日楽しく過ごしていたのに。
 ……そう思っていたのに。

 なぜ、私が?
 なぜ私が女王に?

 逆に考えれば、この息苦しさは女王になってからという事。
 女王候補の時は、早く試験を終わらせて家に帰ることと、それから好きな人の所に毎日しつこく通いつめる事しか考えていなかった。
 好きな人は優しい人だった。穏やかだけど、意志のしっかりした人。
 その意志とは、ひたすら女王に尽くす事。その身も心も。
 ぼんやりしているようにしか見えない彼がそのように女王に心を傾けているというのは、少々意外な事実だった。
 そしてこの場合、それは悪い方向へとアンジェリークを導いたのだった。
 彼は好意ゆえに大陸エリューシオンに力を……サクリアを送り続けた。自分に懐いてくれる少女に少しばかりの期待と、祈りを込めて。
 それが仇となった。
 女王は選ばれた。アンジェリーク・リモージュに。
 あの時ロザリアは言っていた。
 「あんたには完敗したわ」と。
 どう返事したものだったのか、未だにアンジェリークは時々考える。
 完敗? 私は、何もしていない。
 ただあの人が好きだっただけ。
 彼が好きだったから、彼の元へ通ったの、少しでもお近づきになりたくて。
 勝手に力を送ったのは彼。だけど彼の元へ通うのをやめられなかった、彼が好きだったから。
 彼の所に行くのをやめれば、必然的に力も送られなくて済む、分かっていたけどそんな事出来なかった。
 彼が好きだったから。
 ……本当はどうすれば良かったのか。
 好きにならなければ良かったのよ。
 そうしたら、私今頃。

 とっくの昔に家に帰れていた。
 女王になんてならずに済んでいたのに。

 息苦しい。
 どうしようもなく、息苦しかった。


つづく


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